番外短編

  死にぞこないバースデー  



 こんこん、と三度目のノックをするも、応答はない。休日だからまだ寝ている――という可能性は極めて低い住人なので、また室内で練炭を焚いてやしないかと、名前を呼んでみる。
 渋々観念した、重いドアが僅かに開く。暗がりから、窪んだ片目が来訪者を認識。社内の同期と分かると、ようやく顔を見せてくれた。

「お休みのところ失礼致します。お早う御座います、霧辺きりべ殿」
「……仕事か?」
「いえ。本日は個人的に、ご相談がありまして」

 来訪者である青年は、常に微笑んでいるのか閉じているのかも分からない細目を、やや困った風に下げた。彼は誰に対しても腰が低く、それは同期入社の、自分より若い少年でも例外ではない。
 しんが、ドアの向こうで居心地悪そうに俯いたのを「首肯」と捉えたのか、青年は話を続ける。

「仕事が立て込み、先週の『春の彼岸』を逃してしまったのです。そこで急いで準備をしたのですが、うっかり作りすぎてしまい。お裾分けに参った次第」
 「慣れないことはするものではありませんな」と頬を掻きつつ、青年が前に出したのは一枚の皿。そこに拳ほどのぼた餅が、三つ重なっていた。

「いや……そういうのは」
「ちなみに霧辺殿、朝食はもう召し上がられて?」
「あ、あァ、まあ……」
 一度も合わせてくれない眼が、苦しそうに泳ぐ。心配をかけたくないが故の嘘と、嘘をつく行為への罪悪感。そんな些細な二律背反でさえ、今は少年を追い詰めてしまう。

「差し支えなければ、引き取って頂けないでしょうか。拙者の失態で、このまま廃棄するのは心苦しく……」
 そうしょんぼりと肩を落とされては、真も首を縦に振るしかなくなる。隙間からそろそろと手を出し、皿を受け取ると。

「……じゃあ」
「誠に面目ない。有り難う御座います、霧辺殿」

 深々と下げられた青年の頭を見て、鳶色の瞳はまた陰る。
 結局それ以上の言葉は紡がれぬまま、ドアは固く閉ざされた。


 小窓を塞いでいたカーテンを引いて、自室に微かな光を許す。
 都内某所にそびえる本社ビルには、社員がそのまま居住できるフロアがある。いわゆる社宅であり、私物の設置も自由だ。
 だが少年の部屋にあるものと言えば、薄い布団と、机のみ。以前、先ほどの同期が入ってきた際に「……独居房ですか?」と真顔で困惑されたのを思い出す。
 ――実際そうであったなら、どれだけ心穏やかだったろう。

 皿を机へ置き、畳に座す。
 貧しかった頃の癖で食べ物を粗末に出来ず、つい受け取ってしまったが、困った。この部屋には箸も無いというのに。
 仕方なく手づかみで、ぼた餅を口に含む。
 味覚を失って久しい舌の上で、べとべととまとわりつくだけの異物を、ひたすら喉の奥へ押しやった。



● ●

 控えめにノックをすると、部屋の中から物音がした。ドアノブが回り、室内から照明が漏れる。

「夜分に申し訳御座いません、拙者です」
「知っとる。……ワイの部屋に来る物好きなんて、あんたぐらいしからへんよ」
 呆れと戸惑いがちょうど半分ずつ滲んだ顔は、既に青年と同じ高さになっていた。じきに少年とも呼べなくなるのだろう。

「申し上げにくいのですが、実は、墓前に供えるぼた餅が余ってしまいまして……」
「……また?」
「いやはや、去年に続きお恥ずかしい。もち米の分量を誤ったようでござる」
 ぼた餅を詰めたタッパーが、おずおずと差し出される。真は一瞬、つらそうな色を浮かべ、すぐさまそれを愛想笑いで塗りつぶした。

「そんなら食べ盛りの子とか、夜勤の社員に差し入れたら喜ばれると思うけど」
「拙者も初めはそう考えたのですが、『他人の手が握った食べ物とか無理』『針でも仕込んでません?』などと断られ……まったく近頃の若者ときたら!」

 青年の糸目が数ミリ吊り上がった気がするが、相変わらず嘆いているのか笑っているのか識別が難しい。決して身内に毒を盛るような人物ではないものの、いかんせん彼の『本業:忍者』という特異すぎるプロフィールが、皆を警戒させるのかもしれなかった。
 ……稀少とか時代錯誤という点では、真も“そちら側”なのだけれど。

「あァ……うん、そういうことなら、少し頂くわ」
 これ以上問答を続けるより、この選択肢が最も早く済む。
 安堵で目元を緩め、礼を述べてくる同期に、鳩尾が痛んだ。また胃液が食道を焼いている。

「お休み前に失礼致しました。では、拙者はこれにて」

「あ、のっ、……ありがとう、しゅん

 もと来た廊下を戻ろうとしていた青年は、思わず振り返り、滅多に見せない瞳孔をぱちくりさせる。自室から半歩踏み出てまで、懸命に伝えようとする少年がそこにいたから。
 本人もぎこちないと分かっている、泣き顔にしか見えない下手な愛想笑いで、彼は「でも」と呟く。

「あんたも貴重な休みやろ。頼むから……ワイなんかに気ィ使わんといて」

 静かに引かれたドアに、冷たい施錠音だけが続いた。



● ● ●

 初めは空耳かと思った。
 ドアの外から二度目の「きりべどのー」が聞こえて、急ぎ部屋着のまま玄関に向かう。

 廊下には、積み上がった重箱が立っていた。それに面食らっていると、漆塗りの重箱の後ろからひょっこり同僚の顔が出てきて、更に驚く。
 彼が黒のジャージを着ているせいで、つい重箱と同化して見えてしまったが、それにしても何段あるのか。さすがバランス感覚に優れた忍者だ、そば屋の出前にでも転職すればいいと思う。

「なんで……瞬はしばらく任務で戻れないて、社長が」
「えぇ不思議なこともあるもので、その潜入先の組織が、あれよあれよという間に自壊してしまいまして。昨日をもってお役御免と相成りました」

 「あはは」と人の良さそうに微笑む青年が、今回はどんなえげつない裏工作を仕掛けたのかは、あえて問わないでおく。なかなか彼のようには出来ず、乾いた苦笑いしか貼り付けられない顔で、「お疲れさま」と労った。
 仕事から帰ってきたばかりだろうにと、瞬が抱えていた重箱を引き受ければ、鼻先を春の匂いがかすめた。

「まさかこれ……全部、ぼた餅?」
「ごっ、ご安心くだされ霧辺殿! いくらなんでも飽きられてしまうと思い、今年は半分、きな粉のぼた餅にしました故……!」
「いや作りすぎる問題の方を改善して……」

 田舎の大家族でも消化するのに三日はかかるであろう量が、真の腕にずっしりとのし掛かる。
 今となっては真より低い位置から、まるで懸命な上目遣いをする彼は、やっぱりずるい。もう、そんなことをしなくても。

「ありがたく貰うよ。あんたの作るぼた餅、好きやし。……悪いな、瞬には仕事でも世話になってばかりやのに、ワイからは何も返せへん」
「何を仰います、毎年助けて下さっているのは霧辺殿の方で、」
 真は大きく首を横に振り、「だから」と青年の続きを遮った。

「本当に……大したことも出来へんけど、瞬さえ良ければ……その、お茶ぐらいは、淹れられるから」

 視線を逸らした真が僅かに、体を玄関の壁際に寄せる。そのニュアンスが理解できていながら、瞬はしばし、開かれた殺風景な室内をぽかんと見ていた。

「む、無理にとは言わんよっ、仕事の疲れも残っとるやろうし、茶葉も安物しかないし……! ただ、これだけのぼた餅を一人で、っていうのもアレやから……」
 徐々に重箱の陰にちぢこまってしまうので、最後の方はほとんど聞き取れなかったけれど。彼がまた自責に溺れてしまう前に、瞬はつとめて自然に、その一歩を踏み込む。

「それではお言葉に甘えて。お邪魔致します」
「煎茶と、一応コーヒーもあるけど」
「では拙者コーヒーで」
「意外……」
 両手が塞がっている住人に代わり、青年は丁寧にドアを引いた。



● ● ● ● ●

「すっかり春やなァ」
「春ですねぇ」

 とぽぽぽ、と急須から茶を注ぎ足しつつ、瞬は相槌を打った。「どうぞ」「どうも」二人同じタイミングで湯呑みをすすり、テレビ画面の向こうで咲き誇る花を見やる。

 東京の開花宣言が伝えられてから、はや五日。街中が春の陽気に浮かれているというのに、室内の二人は未だコタツに収まっていた。最近ここに入り浸るようになったフォックスが、「まだ片付けないでッ」と駄々をこねるせいだ。
 無意味ながらんどうに見えていた部屋は、いつからか、遊びに来る同僚たちの私物で騒がしくなった。このテレビを持ち込んだのはゲーム目的のフォックスだったし、ギターに漫画、誰かの呑みかけの一升瓶まで、真は律儀に整理している。

「あの狐は図に乗ります故、あまり甘やかさないで頂きたい。まったく皆、霧辺殿の私室を何だと思っているのか」
「せや、この前あんたが忘れてったジャージ。洗ってそこに畳んどいたから」
「か、かたじけない……」

 コタツに置いた皿から、また一つぼた餅を取ると、大きく口を開けて頬ばる。
 仕事で四六時中、行動を共にしていたのに、瞬自身の話を聞けるようになったのはついこの頃だ。
 曰く、彼も真と同じ、西側の生まれであること。古里に残してきた妹がいること。両親の顔を知らずに育ったこと。――彼がぼた餅を供えるべき墓など、初めから存在しないことを。
 自分なんかには身に余る甘さの後に、淑やかな塩味えんみが舌を撫ぜて、自然と咀嚼してしまう。主張しすぎないのに、いつの間にかするりと溶け込んでいる滋味深さが、なるほど作り手とよく似ている。

「……桜。見に行こか」
「は、今からですか?」
 どっこいしょ、と口にしてコタツから出る姿が、既に返答だった。せっかくだからぼた餅も持っていこう、と風呂敷を探す。

 ――この五年の内に、瞬から貰ってしまったものがあまりに多すぎた。こんなことではもし明日、待ち焦がれた死が訪れたとて、とても成仏できる気がしない。
 死に損なうことしか能が無い自分でも、少しぐらい、彼に返せるものが有るはずだ。

 薄いカーディガンを羽織ったら、玄関のノブを捻る。
 廊下の窓から差し込む陽光に、少し鳩尾が痛んだけれど、瞬へと振り向いた顔は上手くつくろえているだろうか。

「途中でお酒も買っていきましょうか」
「エエけど、ワイはまだ飲めんよ。明日までは」
「ううむ、致し方ありませんな……。では前夜祭ということで一杯」
「いや全然『では』ちゃうし」
 そうして友人と並び歩き始めた真が、閉めたドアに振り返ることはもうなかった。


――――END――――
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