●● ボクと君の優しい原罪 ●●
黄昏の橙色に染められた寂しい音楽室に、テノールの旋律だけが響いていた。
秋の紅葉も鮮やかに映えるオレンジの夕陽は一見優しいようだが、この部屋の陰りで表情が見えない歌い手の青年に光と影を与えて、得体の知れない何かを彼から感じさせてしまう。
――――誰そ、彼は?
あんな人間は知らない、アレは自分が知っている生き物ではない気がするなんて、なんと馬鹿馬鹿しい思考か。
黄昏時ではなく、この光景ではおそらく、“逢魔が時”と言い表した方が的確なのだろう。
それほどに感じるのだ、魂全てを惹き込もうとする魔物セイレーンの如き魔性を、彼の歌声から。
彼の傍らでただただ聴き入っている小さなあの子は、既に魅了されてしまった一人なのか。
合唱部の部員達、それどころか全校生徒が下校したはずの北校舎音楽室の扉を開いて、本日見回り担当の生徒会長は自分の眼鏡を上げてから盛大な溜息を床に落とした。
「エネルギーを喉に回しすぎて耳が全く機能してないんじゃないのかお前。下校時刻の音楽は聞こえなかったですかねぇー、安達君よぉー?」
生徒会長の知る限りの言語ではなかったその歌が――あるいはただの音階の羅列だったのかもしれないが――ピタッと止まってしまうのは心惜しかったが、そんな事を一々気に留めてはいられないのだ。彼らを校内から追い出さねば自分も帰れない。
「悪いな、俺の耳は無意識に雑音を遮断出来るもんでな」
「合唱部のくせに先人の偉大なクラシックを雑音呼ばわり出来る時点で、ンな無能な耳は削いじまえアホが」
「なんだ、今のお前は生徒会長なのか? それとも部長か?」
「どっちもだよ、この怨霊部員」
幽霊部員を通り越して我が校合唱部の怨霊、それがあの彼に対する周囲の評価だ。
ネクタイを締めていなければシルエットで女と見紛うばかりの長髪に、細長い身躯。声音も顔つきも確実に男のそれなのだが、やはりあの伸び放題の黒髪がネックだろう。
女生徒用リボンとの違いであるネクタイも、喉が圧迫されるのが大嫌いな為にいつも緩めっぱなしでだらしのないことこの上ない。
この怨霊部員が下校時刻を守らないせいで、合唱部の部長でもある生徒会長は耳にタコが出来るほど教諭から注意を受ける羽目になる。
しかも腹立たしいことに、これほどの技量を持っていながら奴は部活動に全く貢献しないのだ。
あの歌声は、世界でたった一人だけの為に。
他人に聞かせる気は毛頭無いとかで、コンクールも発表会も全て蹴り飛ばしてきた奴の無神経さが心底理解出来ない。
「ふわぁ……あっ? あ、あれ? もうこんな時間……って、うわぁっ、軽尾先輩!? ごめんなさい、ボク、眠っちゃってましたっ」
青年のすぐ隣に椅子を置いて彼に頭を寄りかけるように腰掛けていた女子が、今更になって目覚めたらしい。生徒会長の姿を見るなりわかりやすく飛び上がる。
とすると、先程のあの歌は子守歌のようなものだったのか……その子の疲労を察して歌い癒してやるのは大いに結構だが、どこか公園で勝手にやっていろとでも言いたくなる軽尾生徒会長を誰が責められようか。
「ご、ごめんな、起こしちゃったか? せっかくお前が休めてたのに……」
「ダメだよむっくん、また下校時刻を過ぎちゃってるもん! いつから寝ちゃってたんだろボク……起こしてくれて良かったのに」
「だってお前、最近頑張りすぎてたから……どっかのバカ部長がマネージャーを酷使し過ぎるせいで! それにお前の可愛らしいエンジェルな寝顔を見てたら起こすことなんか出来るもんかっ、そんなことが出来るヤツは本場のマフィアか悪魔くらいだ! いや、たとえ悪魔だとしてもミィーの眠りを妨げるヤツは俺が滅殺してくれるわッ!」
「そんな怖いこと言わないでむっくんっ、悪魔さんでも殺したりしちゃダメっ」
「えっ、あっ、お前がそう言うなら悪魔とだってマブダチになるから!」
「悪魔さんに近づいたらむっくんが悪い人になっちゃうからそれもダメエェェっ」
「ごめんなミィーっ、俺はお前だけのものだあああぁぁ!」
「…………下校ついでにさっさと現世からも還ってくれないかバカップルども」
人前にもかかわらず互いにひっしと抱き締め合っている二人に、慣れているとはいえ目のやり場に困るのでもういっそこのまま音楽室の鍵を掛けてしまおうかとすら思い始めた。
軽尾と安達武蔵は同じくこの高校の三年生だが、小柄な女生徒の美奈はまだ一年でしかもマネージャー。
自分のことを『ボク』と言っている以外は、心優しく至って普通の女子……でもないのかもしれない。あのバカップルぶりを見ていると。
……まぁ、二人は幼馴染みで兄妹同然に育ったというし……いや、それはそれで色々と問題があるのではないだろうか、この現状。
「どうせ明日からの週末は部活も休みなんだ、イチャつきデートなら余所でやってこい。彼氏ならせいぜいイイ場所に連れて行ってやるんだな、お前らがどこまで進んでいるかは知らないが」
音楽室の扉に寄りかかって腕を組んでいる部長に呆れ気味でそう言われると、二人は顔を真っ赤にして首を振ったり動揺しながら「ばばばバカ言うなっっ」とか「そそそそんなデートなんて、彼氏なんてそんなのじゃ先輩っ」だとかパニックに陥りだすのでもう呆れを通り越して笑えてくる。
あそこまでバカップルの道を突っ走っておきながら、当人達は未だに恋人の領域ではないとでも思っているのだろうか。
真の意味で恋人に進化してしまった時を考えると末恐ろしすぎてゾッとしてきた。
「そのー……、どこか行きたいところはあるのか、ミィー?」
「え、む、むっくんが行きたい場所についていきたいよボクはっ」
とりあえずその呼び合いをやめろ即刻やめろ、と水を差したくて震える喉を締め付けるようにぐっと堪える部長に誰か称賛を向けてあげてほしい。
「男女で高校生なら色々あるだろうが、武蔵、伊部。カップルでメジャーと言えばだな、」
「あ、そうですね……! むっくん、ボクを甲子園に連れてって!」
「合唱部員に無茶言うんじゃねぇよ」
「じゃあ国立競技場に!」
「俺達文化系なのわかってるか?」
「クリスマスボウ、」
「そもそもウチにアメフトなんてマニアックな部は存在すらしないんだが」
「オリンピックで輝くむっくんが見たいよーっ!」
「いきなり十段階くらいハードル上がってるんだが……って、武蔵も全部叶えようとしてんじゃねえぇぇっ!」
今にも四階の窓から校庭へ飛び出そうとしている青年を羽交い締めで押さえ込み、貴重な才能と部員を失わない為に部長は必死だった。
極めて不本意だが、こんな変態でも一応は友人だ。『体育会系を唐突に夢見た友人に目の前で校庭へ飛ばれました』などという人生の汚点は真っ平御免である。
「放せっ、俺はミィーを全国へ連れていく! ミィーに世界を見せてやるんだッッ! キャッチャーだろうがキーパーだろうがラインバッカーだろうが俺はやってやるうぅぅッ!」
「お前のひょろっちい身体じゃ運動なんか出来ねぇってっ、つーか微妙に守備ポジションばっかだなお前! 落、ち、着、けええぇぇ!」
普段はむしろ無表情が多いのに、実は『恋は盲目』どころの騒ぎではないのだ、この青年の場合。
目隠しをしたままその場で三十回転、直後に釘バットを握り締めて爆走し始めたスイカ割り選手をイメージしてもらえれば、軽尾部長のこの焦りと恐怖がお分かりいただけるだろうか。
「えぇいっ、俺がお前達にデートの真髄を教えてやる! 行けなくなった映画の前売りチケット二枚をやるから、コレで思う存分甘い青春デートを堪能してこいっ!」
まさか学生カバンに入れっぱなしだったのだろうか、いきなり部長は映画館のチケット用封筒を青年に押しつける。
その封筒に二人できょとん顔を浮かべてから、本当にいいのかと問いたいらしき表情を同時に見せるバカップル。
「実は彼女とその映画に行こうと思っていたんだが、つい先日別れたんでな……。最高のシチュエーションはお前らに譲ってやるぜ、感謝しろよ」
「悪いな、そんな事情で……何の映画なんだ?」
「この時期上映中の大作はアレしかないだろうが、『劇場版・美幼女戦士マミたん ~つるぺた大作戦~』しか!!」
「お前にだけはデートの真髄だの青春だのシチュエーションだの言われたかねえよこのロリコン!」
床に叩きつけられた封筒から顔を出した子供向けピンク色のチケットがやけに眩しい。眩しすぎて色々と痛い。
そこから彼女溺愛男VSロリコン生徒会長の醜い言い争いが始まるわけで、互いに胸倉を掴み合いながら試合開始。
「こんな映画に誘われたらどんな女でもすぐさま別れるわボケが!」
「はんっ、何を誤解してるんだか。あんな女、俺の方からフッてやったんだよ! 誕生日が俺にバレてわかったんだ、年齢誤魔化して付き合ってやがってたんだよあのアマ!」
「恋に年齢なんて関係ねぇだろうがっ、愛した女のためなら純粋に誕生日祝ってやれ! 幼女のフィギュアに注ぎ込む金はあるくせにっ」
「バーカーめー! 俺は十五歳以下にしか興味は無いッ! いくら童顔とはいえ十六だなどとそんな年増女、誰が相手にしてやると思った!? あんなババア、アウトだアウトオォォ!」
「お前が人間としてアウトだと早く気付けええぇ!」
どっちにしろ両者アウトな十八の男達が口論を続けている間に、足下で踏まれそうだったチケットをそっと少女が手に取った。
何かに気付いたらしく「あ」と小さく音を出してから、控えめにクイクイと指で彼の袖を引く。
「むっくん、むっくんあのね、ボク、このアニメ好きだから見たいんだけど……むっくんは、やっぱり嫌……?」
「そ、そうなのか!? なら行くっ、俺はミィーと一緒なら銀河の果てまでも一緒に行く!」
「むっくん……っ」「ミィー……!」とがっしり両手を握り合って身を寄せ合う様子に、遠目から「……そーいや、伊部もまだ十五だからギリギリでセーフか……」と呟きながらマネージャーを見やる部長がいたが、発言のコンマ数秒後に武蔵によって黒板に吹っ飛ばされたのでその野望は刹那に潰えた。
「完全に暗くなる前に帰ろうミィー、小父さんと小母さんも心配する」
「うん。軽尾先輩、チケットありがとうございました! さようならー」
何事も無かったかのように手に手を取って談笑しながら帰っていく二人の声を遠く聞き、生徒会長兼合唱部部長兼ロリータコンプレックス至上主義者な眼鏡青年は「くそ、あんな天然系童顔少女とフラグ立てまくりやがって……いつかバチが当たるぞ武蔵めぇ……っ」と負け犬的遠吠えぐらいはしてみた。
少し前まで青年が精一杯の体力で漕ぐ自転車に二人乗りして登下校していたが、最近になって徒歩にしたのは、万が一の事故で大切な彼女に怪我をさせてしまう危険に気付いたからと、一番は二人でいられる時間を少しでも増やす為で。
そんな事情なんて全く説明しなかったのに、それでも突然「歩いて行こう」と言い出した自分に黙って頷き手を握ってくれた彼女が愛おしくて。ただ、愛おしくて。
「大分、風が冷たくなってきたね」
「そうだな……今からもう寒くなってるし、今年は厳しい冬かもな。ミィーの誕生日も近い」
なるべく冷たい風に当たらないようにと青年の大きな手が包み込んだ中の少女の手が、微かに動いた。繋がった手指だけ、お互い異様に熱い。
「まだ全然先だよ、気が早いって! ボクの誕生日に少しでもむっくんに会えたら、それですごく嬉しいから……」
「毎年必ず一緒にいるだろう? 何か欲しい物は……って、訊いてもミィーは一度もリクエストしてくれたことなんて無いけどな」
青年の艶やかな黒い長髪と、少女の制服であるスカートが、軽く北風になびいてゆく。
その瞬間、彼女が寒かろうと肩をこちらへ引き寄せてみた彼氏と、先程の言葉に返事しようと口を開きかけていた彼女の、それぞれの言動が同じタイミングになってしまって。
「ぼく……、むっくんにあいしてほしい……」
必死に聞こえなかったフリをする青年と、必死に独り言だったフリをする少女で、身を寄せ合ってしまったまま顔を逸らして耳まで真っ赤だ。
二人が離れられないよう寒風ばかり吹かせる空の悪戯は、幸か不幸か、神か悪魔なのか。
――――END――――