「一人で大丈夫か?」と不安げに問われた時、咄嗟に「全然大丈夫だよっ」と答えてしまった一番の理由は、意地でも見栄でもなく、彼の心配を少しでも和らげたかったから。
それでも酷く気を遣ってギリギリまで送ってくれた青年に、精一杯に無理をした笑顔で別れを告げた。
あの時は笑顔で、「さよなら」と言えたのに。彼と離れてから一秒一秒ごとに重くなる不安、恐怖、孤独。
本当は言いたい、心から叫びたいのだ、今すぐにでもこの窓を開け放って。
「怖いよ」と。「一緒にいてほしかった」と。
彼女の心で我慢と後悔と恐怖が三つ巴の感情となる中、あまりに唐突に閃光が
迸った。
「いやあああぁぁぁぁーっっ」
光より遅れてきた轟音と、彼女の悲鳴は同時。それ故に、掻き消されてしまう鈴を転がしたような声音での叫び。
暗い窓を先程から激しく叩いてくるのは日本の四季に適った真夏の夕立ちで、可愛らしい小物やぬいぐるみだらけのこぢんまりとした部屋は彼女の私室。
そしてその小さな子供用のベッドの上で毛布を頭からかぶって震えている丸い物体が、伊部美奈だったりする。
何を隠そう、彼女は今、嵐の中を家で一人ぼっちのお留守番という、子供にとってとてつもない試練の真っ只中にいるのだ。
……補足すべき点と言えば、彼女が十五歳の高校一年生で“子供”という枠から既に飛び立っているところだろうか。
「怖い、よ、怖いよぅ……っ、誰か……ママ、パパ、むっくん……っ」
両親は共働き、「せめて夕立ちが止むまでウチに来ないか」と言ってくれた武蔵にも高校三年生らしく全国模試や学力テストなどの受験勉強がある。彼はそんなことなんでもないように言っているが、美奈は武蔵の邪魔にだけはなりたくなかった。
しかし、今日の夕立ちはいつになく酷い。
雷鳴は絶え間なく雨空に響き、台風のような土砂降りに、夜中と見紛うほど真っ暗な窓の外。
怖いのでなるべく見ないようにしていた窓をそーっと覗けば、ちょうど向こう側にはこちらと同じく灯りのともった二階の個室の窓が見える。カーテンは閉まっているが隣の一戸建てが安達家で、あの部屋に居るのは大好きな武蔵だ。
窓を開けて叫べば声が届くかもしれない、この距離。
だからこそ、思わず大きな悲鳴をあげてしまわないように彼女は懸命だった。
「むっく、んっ……むっく――――」
そんな少女の必死な想いを嘲笑うかのように、一つの雷がついに地に落ちた。鼓膜が痛む爆音と雷光、更に大地を揺らがせて。
しかもそれの直後、彼女の支えであった部屋の明かりも消えてしまったではないか。窓の外から見える街が全て明かりを失っているのを確認する限り、おそらく周囲一帯が停電となっているのだろうが、パニックになり毛布の中で泣きだしてしまった美奈はそんな状況確認など出来るはずがない。
まさにこの世の終わり、という泣き顔のまま少女はぎゅっと携帯を握り締め丸くなっていた。
携帯の液晶画面には既に『むっくん』と表示されていて、ボタンを押せばすぐに相手をコールできる状態。
それでも震える親指が最後のボタンを押せないのは、彼の足手まといになりたくない一心。
恐怖と涙で疲労困憊した精神はやがて、閃光と暗闇の狭間に落ちていく。
「た、すけ、て…………むっくん……」
弱々しいその鈴の音も、唯一彼と彼女を繋いでくれる携帯さえも、絨毯へ滑り堕ちていく。
◆ ◆ ◆
使い古されていい具合に曲がった線条の鉄を鍵穴に突っ込んで、約二秒。
解くための方法に刹那の迷いも無い持ち主は、三秒目には既にドアノブを勢いよく回していた。
身体を鞭打つような土砂降りも、地響きすら起こす雷撃も、二重ロックの上に更にチェーンをかけた防犯玄関すらも。
「うおおおおおぉぉぉおおッ、ミィィィィイイイィ!!」
素で鬼面の形相が出来る“
狂戦士”には、何の障害にも成りはしなかった。
鈍い金属音が響き、伊部家の玄関に引き千切られたチェーンの残骸が無残に落ちていく。同時に激しく吹き込んでくる豪雨と、一歩、また一歩ゆっくり踏み入ってくるびしょ濡れの素足、血走った上にギラギラと光さえ放つ双眸の青年。
人の気配がせず真っ暗な一階には目もくれず、照明が点いていない中を一直線の猛ダッシュで彼は二階まで駆け上がっていく。
『みな』と装飾されたオレンジ色の可愛らしいドア掛けがぶら下がっている扉へ、微塵の躊躇いすら思わず突進あるのみ。そして先程の野獣の咆哮を繰り返した。
直らない停電のせいで同じく真っ暗な部屋だが、彼の“愛し
EYE”は赤外線カメラの如く美奈だけには反応する。はずだ。
だがベッドの上にもタンスの前にも絨毯の下までめくったが、愛しの彼女の姿が見当たらない。
まさか彼女に何かあったのではと脳裏を過った彼は、眼尻に涙を浮かべ発狂寸前モードに移行。
「みみみミィー!? うあああぁ俺が不甲斐ないばっかりに! ミィーの身に何かあったら俺はっ、俺はああぁぁ!!」
ごみ箱に顔面を突っ込んだりクローゼットによじ登ったりベッドでバインバイン跳ね回ったりして散々恐慌状態に陥った挙句、美奈の勉強机の回転イスに足を引っ掛けて盛大に転んだ。
どうしてイスだけが机から離れているのかとようやく気付いて振り返ると、本来ならイスが収まっているであろう机の下に、小さく丸まった物体が。
そっと顔を近づけてみて、それが“愛しのミィー”だとわかるやいなや、あまりの嬉しさに感涙しながら引っ張り出してきて抱き締める。
「ミィー、ミィーっ? 良かった、無事で……こんな所でお昼寝してたんだな!」
「ふぁっ? むっくん……!?」
器用なことに机の下で両手を腹部に当て丸まりながら眠っていた美奈が、目覚めて早々に武蔵に抱き締められているこの状況に驚く。普通であれば何はともあれまず男を突き飛ばすべき場面だが、ここでとりあえず「むっくんー!!」と抱き締め返してみるあたりが、彼らが高校名物バカップルと呼ばれる一因である。
特に考えもなく三分ほど強く抱き締め合ったところで。
「どうしてウチに入れたの、むっくんっ?」
それは三分前にまず発言するべきと思うのだが。
「ミィーのことが心配で気が狂いそうだったからに決まってるじゃないか!」
そして相変わらず微妙に話が噛み合っていない。
「でもウチの玄関、むっくんに言われた通りにちゃんと鍵をいっぱいかけて……」
「それなら心配いらない! 長年愛用してきた伊部家玄関用の針金と、俺の愛の力さえあればあんなものっ、微塵も妨げになるものか!」
「そっか! やっぱりむっくんはスゴイねっ、ありがとうむっくんー!」
「ミィーのためなら俺は伊部家の避雷針にだってなるっ、大好きだミィー!!」
未だに停電中で真っ暗な部屋の中、異様に熱を放つ二人組。本日は良識人も第三者もツッコミすらも存在しない為、しばらくこの脳内お花畑な展開が続くのだろう。
「怖かったのならすぐにでも俺を呼んでくれれば良かったのに……。腹を押さえていたが、もしかして痛いのかっ? お腹空いたのか!?」
彼女が丸まりながら腹部を押さえていたのを見逃さなかった武蔵が、心配そうに顔を覗き込む。元々料理が苦手な少女なので、空腹なのではないかとか。
「あ……うぅん、違うのむっくん。雷様におヘソを取られないように隠さなきゃいけないんだよ?」
「なんだと……っ!? そ、そんなミィーの大事な所を奪われてたまるかっ! ミィーの可愛らしい
臍を強奪に来ると言うなら、俺を倒してからだッッ!!」
「むっくんもちゃんと隠さなきゃダメだよっ、雷様に取られちゃうよ!」
自分の腹部に当てていた小さな両手を離し、武蔵の細い腹に当て、彼のヘソを隠そうと必死な少女。「それじゃミィーが無防備になる!」と焦って美奈のヘソを隠そうとする青年。どっちにしろ服の上からだが、最高に奇妙なポーズとなっている。
「……これ、全く動けないぞミィー……」
「……どうしよう、むっくん……」
良い対策が浮かばぬままその体勢でどれほどの時間が過ぎただろう。唐突に、武蔵が強い力で美奈の身体を覆うように抱き寄せた。
「む、むっくん……っ?」
「ミィー……聞いてくれ……!」
ぎゅっと二つの身体はくっ付き、少女側は身動きも出来ないほど。
いつものように美奈が抱き締め返す余裕も無いほどの、力強さで。互いの息が触れるほど目前に、青年の真剣な表情。
「――こうやって二人で臍をくっ付け合えばいいんじゃないだろうか……!!」
「……!! むっくん…………やっぱり天才ー!!」
そうして全身で彼女を雷鳴から守る彼ごと、二人の意識はお花畑へと飛んで行った。
◆ ◆ ◆
「――な! みな、美奈!」
人工的な眩しさと男の声で、少女は目を覚ます。
寝ぼけ眼で自分の状況を確認すると、ここは電気も回復した美奈の部屋で、絨毯に横になっていて、眠っていてなおずっと抱き締めていたのは幼馴染でお隣さんの武蔵で。
そして彼女を起こしたのは、目の前に立っている父親と母親。心配そうにワタワタした父と朗らかにニヤニヤしている母が随分と対照的だった。
青年の腕の中で目覚めた少女は、とりあえず、思った。
「ママ、パパ、お帰りなさいー」
「ただいま美奈ちゃん、お留守番偉かったわねー」
「ち、違うだろママ! 男がっ! 暗い部屋に美奈と男が二人っきりでー!!」
少々中年太りが気になっていそうな体格の父親が、その身体で挙動不審に狼狽え始める。「男も何も、お隣の武蔵君でしょパパ」と娘によく似た母親が微笑めば、「これはっ! この体勢は明らかにご近所さんとかそういう垣根を数段階超えてしまってるだろママァァ!!」じわじわ泣き出すメタボパパ。
一人娘がきょとんとしている内、騒がしさに青年が起きあがった。彼もまた、初めは状況把握が出来ないらしく。
「……あ、お帰りなさい
小母さん、
小父さん」
「ただいま武蔵君、お留守番ありがとねー」
「だから違うってママ! ウチの玄関っ! 防犯チェーンごと引き千切られたのこれで何回目だと思ってるんだよー!!」
「やぁねぇ、防犯が破られたって肝心の美奈が無事ならいいじゃないの。本末転倒よパパ」「えっ? う、うん……パパが本末転倒……あれ??」などとやり取りしている彼女の両親を尻目に、武蔵はまず美奈を確認して微笑む。いつの間にか抱き締めた体勢で眠ってしまったようだが、夢でもやっぱり美奈とくっ付いていたので、起きてもデレデレと幸せそうだった。
「む、武蔵君! そんな嫌らしい目で美奈を見つめないでくれないかっ!」
「違います小父さん、俺はただミィーの寝癖が食べちゃいたいほど可愛いと思ってっ」
「ぬぁああぁっ、キミに小父さんと呼ばれる筋合いは無いッ!!」
「小父さんは普通なのよパパ」
人差し指を突きつけ大声で拒絶した父親に、母親が依然として微笑んだまま夫の足の甲を踏みつけてやる。
「あぁぅんっ」だとか情けない小さな悲鳴で絨毯にうずくまった伴侶など気にする風もなく、小柄な母親は「武蔵君、せっかくだからお夕飯食べてく?」とにこやかに。
「むっくん、食べてって! 今日のお礼もしたいしっ」
「あぁ、それじゃあ……お言葉に甘えます、小母さん」
自分の身内にさえ見せたことがない嬉しそうな微笑で、武蔵は美奈と手を繋いで一階へ降りていく。「今日は美奈ちゃんの大好きなコロッケよー」という声に喜んで飛び跳ねる少女が階段から落ちてしまいそうで、焦る青年。
「ボク、むっくんに食べさせてあげるっ。『あーん』してあげるね!」
「俺もミィーにあーんするー!!」
「ぱ、パパにも……パパにも『あーん』してほしいな美奈……」
「あぁ、パパは壊れた玄関扉直しておいてね。それまでお夕飯はお預けだからー」
妻が残していった一言に打ちひしがれ、娘の部屋の絨毯で泣き伏すメタボリック父に、もう誰も振り返らない。
仕方がなく破壊された玄関ドアを独りで直す彼に届くのは、食卓からの明るい笑い声。
「おーい……コロッケ、パパにも残しておいてくれるよなぁ~……?」
「大丈夫です、パセリを大量に残しておきましたお義父さん」
「武蔵君ったらもうすっかり鬼婿でいい感じだわぁー」
そう遠くない未来であろう
舅VS婿の闘いは、明らかな後者優勢で既に前哨戦が始まっていた。
――――END――――