そろそろ“麗らか”と表現するには大分日差しも暑くなってきた、五月。
日本人特有の黒髪をショートのボブカットにした高校新入生の少女は、この月曜日の五時限目が大好きであり大心配でもあった。
学生の一週間のモチベーションが最も低いこの曜日に、彼女のつぶらで真摯な瞳が向けられるのは一方向のみ。
出席番号順のおかげで窓際の席の彼女からは、はっきりと校庭のグラウンドが見渡せる。少女が英語の教科書を広げている同時刻、競技用トラックでは体格も既に大人に近い男子生徒達が走っていた。
そわそわと左側の窓の外ばかり気にかける少女の目線の先は、まとまって走る男子生徒達の遥か後方でふらついている痩身。ちなみに彼は現在二周遅れ。
「……あ……っ!」
ついに、と言うか。やっぱり、と言うか。
こんなに校舎と距離があるのにそれでも聞こえた気がする、どてーんっと顔面からの盛大な転倒音。
顔を真っ青にして思わず席から立ち上がってしまった少女は、外国人女性教師に「
What's the matter?」と声をかけられ、バタバタと腕で窓を指さして焦ったり何と言われたのかわからなかったりで更に慌ててしまう。
この授業の間は日本語禁止だと思い出し、彼女は精一杯の自分の想いを教室中に響き渡らせた。もはや裏返った声で。
「あ、あっ、アイアムトイレにーっ!!」
「What!? ウェ、Wait Ibe!」
年頃の女生徒が授業中にトイレ突撃宣言をしてしまったことに顔面真っ赤になって少女は教室から飛び出していくが、そもそも「トイレ」が英語でないことや自らトイレと名乗ってしまったのだと気付いた暁にはあの繊細な彼女はどうなってしまうのだろう。
小さく可愛らしい外見とは裏腹に意外と行動派だったことを知ってしまったクラスメイト達は、呆然として口をポカンと開けたまま、廊下にも響き渡りそうな女教師の「ミスイーベェェェー!!」という絶叫を聞き流していた。
清楚純潔なボブカットを激しく振って、
伊部美奈は今日も走り、呼び叫ぶ。
「死なないでむっくんー!!」
◆ ◆ ◆
揺れる光と影、風が肌を撫でる度に感じる心地よい冷たさ、落ち着く香りと柔らかい感触。
視点の合わないぼんやりとした視界にまず映ったのは、今にも泣き出してしまうのを必死に堪えているような、そんな胸が締め付けられる顔だった。
「み、ぃ……」
「むっくん! 良かったっ、意識が戻って良かったよむっくん……っ!」
どうして三年生の授業中だったはずなのに一年の彼女がグラウンドにいるのかとか、そもそも自分はなんで木陰に寝かされているのかだとか、そんな疑問など脳裏を掠りもせずに彼は貧血で青白い顔で弱々しく微笑んだ。
何がどうなっているか全くわからないが、とりあえず、近くにこの少女がいる。こんなに傍で、彼女だけの呼び方で呼んでくれている。
安達武蔵にとって、美奈の腕に抱かれて死ねるなら本望だった。思いっきり軽度の熱中症だが。
……だが、いい加減そろそろ気付くだろう。
彼女の顔は、自分と九十度傾いているわけで。少女の右手は青年の頬に、左手はしっかり握り合っていたわけで。心地良かった柔らかな感触は丁度頭の下にあたるわけで、つまり。
「み、ミィーっ、ひ、ひひひ膝っ、膝まく……!?」
「え、えっ、膝はまくったりしてないよ? スカートの生地があった方が、むっくんの髪が汚れたりしないし……もしかして気持ち悪い? まくる?」
「だだだだだダメだミィー! いや、お前の脚を見たくないとかそーゆーのじゃないっ、むしろ俺はそっちの方が……だあああぁそーじゃなくて! 今はグラウンドに男しかいないんだぞっ、本能と下心のみが動力源の野獣しかいないんだぞ逃げろミィー!!」
「野獣ってドコっ!? ダメだよ、倒れたむっくんだけ置いて逃げるなんてボク出来ないっ」だとか「俺のことはかまうなっ、お前だけでも逃げ延びてくれミィー……生きるんだ……!」などと青年側まで二人の世界に入っていってしまったので、ランニング後の整理運動をしていた他の男子生徒達は全員揃って「テメェが一番のケダモノだよ……!」と絶叫してやりたいのをひたすら我慢していた。
「……いや、お前が一番のケダモノだろ。女子高生の生脚に激しく反応してる時点で補導されとけ」
「よくぞ言ってくれたー!」と「ついに言っちゃったー!?」の表情をそれぞれ浮かべた男子生徒達の視線の先は、彼らの勇者であり校内でも絶大な信頼を勝ち得ている生徒会長だ。
すぐ近くで聞こえた水をさす声に武蔵が顔を上げると、寝かされている自分の足元にその眼鏡のクラスメイトがいる。
……愛しの彼女とそっくり同じように、膝枕の上に武蔵の両足を乗せた体勢で。
「…………!?」
「……む、何だよその顔」
「とりあえず、死ねッッ!」
「まず死ぬの前提かよ」
「ドライアイスを入れたビニール袋に顔を突っ込んでおけ!」
「地味に苦しんで死にそうだなソレ」
「もうお前死ねばいいんじゃねえええぇーっ!?」
「何が良いのかさっぱりわからないんだが」
興奮して叫び過ぎたせいで酷い頭痛が武蔵を襲うが、それでも涙目になってまで「あっちいけッ、お前邪魔だあっちいけ……っ!」と地球上で唯一の友人をジタバタと足で蹴って暴れる高校三年生、十八歳。
「ご、ごめんねむっくん、ボクすぐにやめるからっ」
「ミィーはこのままでいいんだっ、ずっと永遠にこのままでいいから! 邪魔者さえいなくなれば二人っきりだったのにお前……っ、なに気持ち悪いことしてるんだ
軽尾!」
「熱中症で顔色が青い場合、身体をアイスパックで冷やし、足を頭より高く上げて楽な姿勢にさせる。これ常識。……誰が喜んで野郎に膝枕してやると思ってんだ、これ以上学級委員に面倒かけるなこのヒョロヒョロモヤシっ子」
呆れながらもこういった状態に慣れきってしまい飄々とした声音で、黒縁眼鏡の青年は安達の脚に当てていたアイスパックで軽く叩いてやる。
「……男なら、せめて彼女に泣きながら授業をエスケープさせるような心配かけんじゃねーよ。ゴリたんに報告してくる、後で病院デート行きだなお前」
本当に嫌々だったらしい膝枕を放棄するように武蔵の足をポイ捨てし、学級委員長の軽尾は体育教師、生徒から通称“ゴリたん”などと囁かれる筋骨隆々な男へ「
丹波先生、安達の意識が回復しました。症状は重くないとは思いますが、念の為に医者にー……」とバリッバリな優等生仮面で微笑みに行った。
「お、俺は病院なんか行かなくても大丈夫……」
「むっくん、ボクがちゃんとお医者さんまでついていくからねっ。立てる? 歩けるっ? ボクを支えにして歩いてね、一緒に行こっ」
「……行く。ミィーと行くッ!」
未だに彼女の膝に頭を乗せた体勢で、がっしり両手と両手を握り合う青年と少女、自称“ただの幼馴染”。
「……けど、まだ気分が優れないからもうちょっとこのままでも……いいか?」
「あ、うん、いいよ。苦しくなったら言ってね」
完璧に心地良すぎてもう熱中症なんてどこかへ吹っ飛んでしまったが、こんな安らかで幸せな状態でいられるのなら少しくらい仮病をしたい。本気で心配してくれた彼女に罪悪感を覚えないと言えば、それは全くの嘘になるが。
水で冷やしたハンカチで額を拭いてくれる彼女に心底癒されながら、交差するように左手を伸ばして美奈の頬にそっと触れると、はにかんで「くすぐったいよむっくん」と微笑んでくれる。
美奈以外の人間には決して見せない優しい表情を浮かべて、もうちょっとどころかずっとこのままならいいのにと、まだ子供っぽさの抜けない丸みを帯びて柔らかい頬を撫でていた。
「せんせー、安達が一年女子に指、っていうかむしろ手ぇ出しましたー」
「ああぁぁーだああぁぁーちぃぃぃ! ウォーミングアップで倒れておいてなに
惚気てんだ貴様はあぁぁ!!」
「ちょっ、違っ、軽尾お前っ。四十で独身だからって落ち着け丹波っ!」
「教師を呼び捨てにするなっ、それ以前の言葉でランニング五キロ追加は確実だけどなあぁ!?」と長距離マラソン授業のはずだったのに何故か竹刀を振り回してこちらに走ってくるゴリたんに、泣く泣く美奈の膝枕からスタートダッシュを切って武蔵は逃げ出す。
結果、再び青年が五月の日光にやられて失神し、少女が号泣で縋りつくまで怒涛追いかけっこは続いてしまい、男子クラスメイト達は棚からぼた餅で良い休憩がとれたと言う。
武蔵が走りだしてから、約二分間ほどだったが。
――――END――――