● オレンジ畑でつかまえて - 1 ●

 寒風が肌に痛いほど冬真っ盛りのこの時期に、たった一人ぽつんと屋上に影があった。
 コンクリートにしゃがみ込んだその小さな影は、先程から「ふぁっ?」だとか「あうぅぅ……」と情けない声音をあげて慌てたり落ち込んだりとそればかりを繰り返して忙しそうだ。

 急がなければならないのに。
 早く完成させないと、冬が終わってしまいそうなのに。
 何度も何度も失敗してしまい編んでは解いてきたヨレヨレの毛糸が、北風になびく。
 こうして昼休みに人気ひとけのない場所で作業し、家でも夜更かししてまで編み続けているのに、一向にそれはマフラーの形を成さなかった。

 短い黒髪が風によって頬を叩いてくる度に、身を縮こまらせて震える指先に白い吐息を吹きかける。
 首元のリボンとスカートが可愛らしくハタハタ揺れる、小柄な少女だった。

 上手くいかないながらも、指一つ一つの動作に彼女は大切な想いを込めていく、


「ミィィィイィィィィ!! どこに行ったんだ愛しのミィィィィィーッ!!」

 絶叫であり悲鳴にも似た、青年の声が校舎全体に響き渡るまでは。

 けたたましい音を立てて屋上の錆びたドアをふっ飛ばし、それと同時に倒れ込んできた者がいた。どうやら自らドアに体当たりしたらしく、もはやピクリとも動かない辺りが力尽きた屍そのもの。
 だが少女が唖然としている内に、その屍はうつ伏せのまま小刻みに震えだす。まるで戦場を駆け抜けてきたかのような満身創痍の青年は、掠れた声で何かを呟いていた。

「みぃ……どこにもいない……俺の愛するミィー……俺の光、俺の天使、俺の菩薩が……ッ!」

 血走った目に涙を浮かべるという修羅の如き形相で、青年はそのまま這って屋上のフェンスを目指し始めたではないか。その段階で、ようやく我に返った少女は。

「む、むっくんっ!? どうしたのそんなボロボロで……しっかりしてむっくんー!!」

 手にしていた物全てを投げ出して、くたびれた青年の細い身体に駆け寄る。彼女が好いていた艶やかな彼の長髪も、今は乱れきった上に何故かびしょ濡れの状態だった。

「ミィー! 嗚呼、ずっとお前を探していたんだ、ミィーに何かあったんじゃないかと思ったら心配で気が狂いそうで……! 全ての教室、グラウンドに校長室に開かずの扉、ウサギ小屋は掘ったしプールにも潜ったしトイレも全室探したのにミィーがどこにもいなかったから!!」

「この季節にプール入ったの!? あそこ掃除してないしそもそも立入禁止だし……っていうか風邪引いちゃうよむっくん!」

「俺のこの手がどんなに穢れようと構わない、ミィー、お前が無事なら俺は風邪ウイルスだってこの身に取り込んでやる覚悟だッ」

「あぁ……そんな、ダメむっくん……こんなに冷たくなって……!」

 ひっしと抱き締め合い涙を流すのは個人の自由なのだが、今現在下の校舎内が騒がしくなっているのは、とある三年の男子生徒が全女子トイレに侵入及び個室に向かって絶叫したのだということをこのバカップルにわかってほしい。

「でも……それでもミィーが見つからないことに絶望した俺は、お前のいない世界に俺が生きる意味はないと悟ってここからミィーのもとへ飛んで逝こうと……」

「嫌っ、一人で飛ぶなんて嫌だよむっくん! 飛ぶんだったらボクも一緒にっ、ボクも一度お空を飛んでみたいっ」

「なんてことを言うんだミィー! お前は、お前は生きなきゃならないんだっ、逝くのは俺だけでいい……誰よりも愛するミィーのもとへ……」

「ボクはここにいるよ?」

「え……あれ? あぁ、そうだな、ミィーはここにいるわけだし……俺は誰のもとへ飛んで逝くんだ??」

「ボクのもとだってむっくん言ってたよ」

「あぁそうだった。じゃあ、えーっと………………ミィー!!」

 改めてがばぁっと少女を抱き締めると、彼女も呼応するように「むっくんー!」と抱擁し返してくる。どうして自分が強く彼の腕に包まれているのか本人はさっぱりわからないが、それでもこの青年と触れ合うのは大好きなのでその辺りは深く考えなかった。
 随分と長い時間そのままの体勢だったが、ふと青年――武蔵むさしの方が姿勢を戻して一番肝心なことを問うた。彼女から身体を離す時に物凄く心惜しそうな表情をしていたのだが、満面の笑みの少女には見えなかっただろう。

「それで、ミィー。一体こんな所で何をしてるんだ? 最近は一緒に昼食を食べてくれないし……俺、何か悪いことをしたかっ?」

 戸惑いと不安が絡み合った表情の武蔵に、ミィーこと美奈みなは「うあぅっ」と素っ頓狂な声をあげて急いで背後へ振り返り、北風にコロコロと転がっていく毛糸玉をなんとか飛んで行ってしまう前に捕まえた。
 そして、彼のドアふっ飛ばしタックル光景の衝撃で忘れきっていたマフラーの残骸を、焦って手さげカバンに詰め込み、隠す。

「何でもないの、むっくん! むっくんは何も悪くなくてねっ、ただ、ちょっとボクが……その……」

「…………初心者でも簡単に出来る、手編みマフラー講座?」

「うんっ、そうっ、だから全っ然むっくんは関係なくて……へっ!?」

 毛糸玉やカギ針などの材料を片づけるのに必死で、参考にしていた女子高生向け雑誌を放置したままだった。しかも、ちゃんとそのページが開かれているように重しを乗せた状態ではっきりと。
 “バカップルの彼女”としての贔屓ひいき目を差し引いても、武蔵はあれでかなり聡明な生徒だ。当然、あれだけの情報で全て察せられてしまっただろうと美奈は落ち込んだ。

 驚かせ、たかったのに。
 ちゃんと完成させてからプレゼントとして渡して、驚いてほしかった。
 いつも嬉しいサプライズを贈ってくれる彼にお返しがしたかったのに、何から何まで自分は不器用なのだと俯いてしまう。

 しょんぼりとへたり込んでしまった少女の手から、青年はそっと手さげカバンの中を覗き、オレンジ毛糸の物体を取り出してみる。
 一見すると、一昔前に観光地の土産物屋で流行ったペナントのような……ただの細長い三角形だ。武蔵の記憶にあった“細長い長方形”という想像図とは大いにかけ離れているが、きっとこれが美奈のマフラーなのだ。果たしてどう編めばこんなに綺麗な二等辺三角形になるのかわからなかったが。
 美奈のマフラーがペナント型だというのなら、世間の常識が全て間違っているに違いない。美奈の生み出す物こそ真実、美奈の作るマフラーこそが世界の真理――――武蔵にとっては。
 だが。

「この雑誌の写真みたいに、編みたいのか?」
「……うん……編みたかった、の……」
「…………そうか」

 青年は女子高生向けの明色だらけの雑誌を目を細めて読解し、すぐにコンクリへ戻す。もう一度、重しを乗せて。
 そして少女の背後に回って両手を彼女の前に出し、それぞれ小さな手を上から握る。二人羽織のような体勢で、もう一度カギ針と編みかけのマフラーを美奈の手に握らせた。

「せっかく途中だったのに、邪魔してごめんな。お詫びに俺も少し協力するから、頑張って完成させよう。……温かそうなオレンジ色だ」

 美奈が何か言いたそうに不安気な顔で振り向こうとした時には、彼の顔はちょうどその右肩にあった。「ほら、まずはココからだよな」と大きな指にそっと握られたのを右手の人差し指が敏感に察知する。

 黙々と編まれる橙色の毛糸。先程までの二等辺三角が嘘だったかのように、きちんと真っ直ぐに出来ていく。
 キツく締めすぎないように、緩めすぎないように、青年の骨張った大きな指に導かれるまま編んでいくと自然と簡単に伸びていくマフラー。

 「むっくんは編み物したことあるの?」と小さく訊かれると、「さぁ、俺はどうだったか……お袋がやっているのを近くで見ていたことがあるかもしれないな」と指を動かし続けながらほんの少しだけ嘘を吐いた。
 他人にはさっぱり出来ないくせに、美奈を傷つけない嘘だけは昔からどうしようもなく上手い。そのスキルさえあれば、武蔵にとって他の人物との関係など全てがどうでもよかった。

 午後の授業開始五分前の予鈴が、昼休みと同時に二人の優しい時間の終わりも告げる。その電子音にはっと反応して立ち上がる少女が、青年には十二時のシンデレラのように見えて仕方がない。

「ご、ごめんねむっくんっ、ずっと教えてくれてありがとう! あの、もし時間が空いてたら……明日も、いい?」
「あぁ、もちろんだ。俺は出来るだけミィーと一緒にいたい」

 微笑んでそう答えてから、急かすように「次は移動教室の化学だろう、遅れないようにな」と何故か完璧に脳内把握している美奈の授業を言い当てて、階段を下っていく彼女を見送った。


「……さて、と」
 一度、乾燥した空気が見せる心地よい青空を見上げてから、意識を下界へ戻す。
 校舎内からグラウンドまで校内あらゆる場所で響いている「「安達いぃぃぃ!!」」という教師陣の怒声をどうしたものかと、彼女の不在によって一気にクールダウンした思考で安達武蔵はぼんやりと考えていた。
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