● およめさんと、おいしゃさん - 1 ●

 見たくなかったものに限って、何故か目に留まってしまったりする。

 ラフな半袖Tシャツにジーパン、まだ湿っている赤茶髪を後頭部で一つの団子にまとめ上げた彼女は、視界に入ってしまった人物に遠慮なく「げっ」と口に出してから大きくため息を零した。
 派手なオレンジ色の生地に蛍光ピンクの大きな柄をプリントしてある、一体どこの外国の土産店に行けば買えるのかと小一時間ほど問い質したいハイセンスなシャツを着た青年が、真夏の太陽眩しい駅前の隅に座っていた。

 とりあえず、知らないフリをしてそのまま通り過ぎようと思った。幸い、あの青年はまだこちらに気づいていないようである。
 ……いや、それは“幸い”ではなかった。

 駅前の壁から突き出た段差に腰を掛けながら、その男の目は完全に死んでいた。瞬きもしない、指先も微動だにしない、呼吸に必要なはずの胸筋も一切揺れない。
 奴だけ時間が止まっているか、もしくは本当にあそこで死んでいるのではなかろうか。そんな有り得ない推論しか浮かばないほど、男からは生気など有ったものではなかった。
 遠目では女かと見紛うほどの彼の艶やかで長い黒髪が、熱風に煽られていく。

 思わず立ち止まってしまっていた彼女の中で、『アイツの周囲だけ時間静止論』は否定された。同時に、馬鹿馬鹿しい思考を振りきり対象に接触してみればいいじゃないか、という大胆すぎる案が浮かぶ。
 あんなセンスがハイすぎて未来人かと思うくらいの間違ったアロハシャツを着ている人物の半径一メートル以内に歩み寄り声をかけるのは、金を貰ったって断固として拒否するのに。

「ねぇ、アンタ……あだ、ち……?」

「…………」

 これは本格的にまずいのではないだろうか。
 サスペンスドラマなんかでよく見るのだ、確か、瞳孔に光がない人間は死んでいる、とか。死後硬直、だとか。

 大切な水泳バッグをアスファルトに置いてまで、彼女は青年の両肩を激しく揺するが、半口を開けたままの顔が首ごとグラングラン振られるだけ。
 その遺体っぷりに恐怖すら覚えてきた頃、彼女の中で一人の人物が脳裏を過った。すぐさま水泳バッグの外ポケットから携帯を取り出し短縮番号を押す。

「ちょっ、もしもし!? アンタんとこのロン毛が駅前で死んでるんだけど!!」

『二言目から何ですかそのカオスは、我が家に駅前で大往生するようなロン毛はおりません。番号をお間違えではありませんかお嬢さん?』

「安達だよっ、安達あだち武蔵むさしが駅前で死んでるっぽいのさ! 反応も全く無いし呼吸もしないし! あたしゃどーすりゃいいんだい会長!」

『な!? ……ちっ、なんだ香枝かえババアかよ』

「驚くのはそこじゃないだろー!? っていうか十八歳を老婆呼ばわりするのをやめろと何度叱れば軽尾かるびアンタ……!」

 相手が内情を知る人間とわかった途端に態度を豹変させた電話先の主は、また彼女の長ったらしい説教が始まりそうだったので切ろうかと思ったが、どうやら切羽詰まった彼女は今やそんな余裕も無いらしい。
 水泳プールの塩素剤のせいで赤茶に染まった団子頭の女性が、幽体離脱中のように魂が抜けきっている青年の前で右往左往しながら電話に怒鳴っているその光景に一般人がどんどん離れていく。

『あー、はいはい、わかったわかった、武蔵がそこでまた止まってんだな? それぐらいの事で一々俺に電話かけてくるかねぇ……なんとかしてやってもいいが、報酬として次の金曜日の生徒会残業を俺の代わりに押し付けたいからやってくれるかなー?』

「いいともー! って誰が答えるかアホンダラッ。まぁ、理由ぐらいは聞かないでもないけど……」

『もちろん真っ当な理由はあるぞ、生徒会長が怠惰のサボりで済むか。……実は、金曜の夕方六時からは魔法幼女アニメがだな、』

「まだ純粋な怠けの方が良かったよ会長……っ!」

 こんなのが選挙で全校生徒から選ばれたトップだと思うと、副会長はその下役であることがつくづく嘆かわしくなってくる。
 楽土高校生徒会の副会長、香枝かえ瑠実るみは軽尾会長の右腕にして、こなす仕事量は真の会長と言っても過言ではない――というのが表向き。
 実際には、生徒会内で唯一、会長のロリータコンプレックス至上主義を知ってしまった苦労人だ。

『じゃあ香枝、この携帯を武蔵の耳に当ててくれ。しっかり聞こえるようにな』
「あ、あぁ、頼んだよっ」

 自分の携帯を耳から遠ざける直前に向こうからマウスのクリック音のようなものが数回聞こえ、武蔵のたった一人の友人がどんな声をかけるのかと多少は興味もあった。それとも大音量の音楽でも聞かせて目を覚まさせるのだろうか。
 しばらく沈黙を続ける、香枝の携帯電話と相変わらずの幽体離脱状態男。
 だが。

 カッッとあまりにも唐突に見開かれる青年の瞳。一瞬で血走ったソレは、彼が直後に跳び上がるように立ちあがったのでどういう仕組みで刹那に眼球が充血したのか香枝には理解できなかった。
 それより何より、

「ダメだっ、綺麗だっ、でも嫌だッ、俺を置いて行かないでくれミイイイィィィィィィイイイイ!!」

 二秒前まで魂の抜け殻だったとは到底信じられない、こっちの鼓膜が痛くなるほどの支離滅裂な絶叫を街中で響かせた同級生に本気で心臓が止まりかけた。

 一般市民が愕然呆然と見つめる先に、「うおおぉおおうぅぅ!」とか奇妙な嗚咽をあげながらアスファルトに泣き崩れる黒長髪の青年がいる。あまりにその髪がサラサラと流れていくので、顔が隠れてしまったら本当に女性が倒れていると思われるかもしれない。
 いや、未だ周囲に轟いている泣き声が明らかに男のテノールなのでその心配は要らないか。

「え、え、ちょっ、アンタ何したんだい軽尾!? なんだか今度は突然泣き出したじゃないかい!」

『そうか、相変わらず分かり易い奴で何よりだ。なに、大したことじゃない、俺特製のボイス作成ソフトを試してみただけだし』

「ボイス作成ぃ? えーっと、つまり、安達に一体何を聞かせたんだいっ?」

『お前も聞いてみるか? 声変わり前の女子のソプラノで、飛び跳ねるような元気らしさを表現してある。……あぁ、ちなみにモデルは伊部いべ美奈みなだが』

 「確実に原因はそれだー!!」と香枝がツッこむ前にこちらに届いた、その作成ボイスはこんな言葉。

【今までありがとうむっくん……ボク、ちょっとお嫁に行ってくるね! さよならー!】

 本人が実際に録音したんじゃないかと思うほどの高音質で、しかもバックで流れる教会の鐘の音と「結婚おめでとー!」という歓声、ご丁寧にハトか何か鳥が羽ばたいていく理想的結婚式の効果音付きときたものだ。
 何度もリピートされエコーがかかっていく【さよならー!】の部分を聞きながら、足元でまだ大声で泣き崩れている青年を見下ろしてみる。

 バカップルの片割れにこれを聞かせるのはあまりに酷だろう……きっと今の武蔵の脳内では純白のウェディングドレスをまとった可憐な“愛しのミィー”が知らない男と幸せになる光景が鮮明に作りだされているに違いない。このボイスだけで彼女の花嫁衣裳を瞬時に妄想して「綺麗だっ」とか叫んでいたから。

「まるでそのまま本人じゃないかい……こんなのどうやって作ったんだよ会長?」

『はっ、俺を甘く見てもらっちゃ困るな香枝。幼少よりピアノで培った絶対音感で伊部の声音とイントネーションの特徴を記憶したまでだ。どうだ面白いだろーっ、これさえあれば好みの少女ボイスに何を言わせるのも俺の意のまま! フハハハハハッ』

「絶対音感ってもっと高尚な能力だと思ってたよ……あたしのロマンを返しとくれこの犯罪予備軍……ッ!」

『遊び半分で伊部をモデルにして正解だったな、どうだ、武蔵はぎゃふんとでも言ってるかー?』

 そこで、見たくなかった哀れ過ぎる男にもう一度だけ視線をやり、「……ぎゃふんどころか、今度こそ本当に死のうとしてるんだがどうしてくれるんだい? 交渉決裂で日曜日も生徒会役員に集合をかけてやってもいいんだけどねぇ?」と男達への呆れが頂点に達したのでいっそ攻めに転じてみる。
 『なんだとっ!? 待て、それだけはっ、日曜の朝はミニスカ幼女がレギュラーの特撮がー!!』などと電話先で明らかに生徒会長が動揺しているので、一気に形勢は逆転したらしい。

『よよ、よし、わかった、俺がその場を収拾させてやる。それでプラスマイナスはゼロにしよう、なっ?』
「……こっちから脅しておいて何だけど、会長にそこまでさせる幼女の魅力があたしゃ心底理解できないよ……」

 ずっと“公共の場モード”でいてくれたらこれ以上ない好青年なのに、とぼやきたかったが万が一聞こえてしまったら癪なので内心に留めておいた。
 どうやら作成ボイスの件は再びボイスで片を付けてくれるらしい。泣き倒れて長髪が幽霊状態の青年の耳を探し、また携帯からの音声を聞かせる体勢をとる。
 美奈ボイスが流れ始めたようで、ビクッと跳ね上がる肩。そしてすぐさま。

「うおおおぉぉうっ、パパは頑張りまちゅよおぉぉー!!」

 復活、回復、全快。初期状態より生気と変態度も八割増しで。

「…………軽尾、アンタ日曜は朝から晩まで独り作業決定」

『えぇ!? 何でだっ、これで武蔵は生き返っただろう!?』

「生前より悪化した死者蘇生なんて初めて見たよ! あぁもう周囲が一斉に通報し始めたじゃないかいっ、違います誤解ですっ、この人ヤク中じゃありませんー!!」

 軽尾へ電話を繋いだまま、携帯で百十番を押し始めた一般市民への弁明を急ぐ。人の多い繁華街の駅前だ、確かに怪しいお兄ちゃんが白い粉を売っていてもおかしくはないのだが。
 今度は何を聞かせたのだと問い詰めると、『俺の予測通りのリアクションなんだがなぁ……』などと不平不満を零しながらもう一度ボイスを再生してきた。

【むっくん、今日も一日頑張ってね! ほら、パパが行っちゃうからご挨拶しましょうねー】
【ぱぁぱー、がんばてー】

 これは確かに、一撃必生は確実だろう。あまりに確実すぎて、

「……百歩譲って美奈ちゃんの声はわかるとして、この舌足らずな幼児は何だい?」

『俺の守備範囲は広いからな、十五歳以下なら乳児だってイケるんだぜ? 武蔵と伊部の間に女子が生まれたと仮定した場合、遺伝学上こういった声になる確率が非常に高くてだな、』

「なんでその知識と能力を全て幼女趣味に傾けちまったんだいアンタぁぁ……!!」

 色々と複雑な感情で熱くなってきた目頭を押さえながら、香枝は隣でまだ見ぬ我が子に想いを馳せまくっている青年を止めるべく「じゃ、また後で連絡するよ!」と切ろうとしたが、『おう、それまでに老婆からの電話を自動的に着信拒否してくれるサービスを探しておく』だとか返事されたので思いきり携帯を投げつけた。
 無論、目の前で未だ“でちゅまちゅ言葉”を喋っている気色悪い男に向かって、だ。

「痛っ、……あ、ここは……? ……香枝、か?」
「はぁ、やっと正気に戻ったかい。まったく、独り臨死体験なら一般人のいない余所でやっとくれ!」

 何があってこんな所に座っていたのか知らないが、当の本人も状況が把握できていないらしい。先程の美奈ボイスは自分の夢だと思っているようだ。

「で、アンタはここに何をしに来たんだい?」
「……お前には関係ない」
「どこか具合でも悪いのかいっ?」
「…………別に」

 香枝瑠実は、安達武蔵が好きではない。むしろ、疎ましくもある。

 愛しの彼女不在の教室では世界全てがどうでもいいかのような死んだ目で授業を受け続け、他人に対してはまともな会話すら成立せず、案の定だが軽尾の話によれば部活動にも全く貢献していないらしい。
 そうかと思えば一転、バカップルとしての感情が爆発した時は全校に響き渡るような音量で「ミィミィ」叫び始めるわ、貧弱な身体のはずなのに彼女の為ならば暴れまくるわで。

 こんな高校生云々以前に人として有り得ない男に、定期テスト順位で一度も勝てないことが、学年三位の彼女が彼を激しく嫌悪する理由だったりする。

「アンタねぇ……っ、ちょっとは他人とマトモに会話しないかい! 勉強だけ出来たって、そんなんじゃ誰とも上手くやってけないよ! あーあーヤダねぇ、そんな頭だけの軟弱男に好かれちまった美奈ちゃんはいい迷惑さね!」

 香枝の挑発的な言葉にか、それとも『美奈』というキーワードだけにか、青年はやっと彼女の声が聞こえたような反応をした。
 ようやく振り向き相手の目を見て、段差に腰掛けたまま口を開く。

「……俺は……ミィーが居てくれればそれだけでいい……それ以外は何も、誰も要らない……俺でミィーを救えるなら他に何も望まない……」

 淡々と小声で呟かれる言葉は相変わらず、生気も活気も感情も無い機械音声のよう。今時、電子音だってもう少しは自己主張しそうなものだ。
 こちらの言葉と噛み合っていないのもいつも通りなのだが、少しだけ違ったのは、こちらの目をじっと直視して喋っていること。きっとこれが安達武蔵の精一杯の主張なのではと思うほど、瞳は真剣そのものだった。

 この男を嫌っている彼女が、隣に腰を下ろして「……どういうことだい?」と続きを催促してしまうほどに。
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