番外短編

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 窓どころか換気扇もない密室に、錆と鉄の臭いが混じる。

 パイプ椅子に縛り付けられた体勢で、男はぐったりと黙り込んでいた。
 そこへ歩み寄ったガタイの良い背広が、彼の前髪を掴み上げ、頬に一発入れる。

「……いい加減、手前の状況が呑み込めてきたかい?」

「ちょ待って、今のでアルコール全部リバースしそうだから……ッ、オエッ、いやまだ大丈夫、飲み込める飲み込め……おええええぇ」

 青白い顔で目を回す酔っぱらいに、背広男の背後に居た青年が「神田さん、コイツ薬盛る必要無かったんじゃないスかね……?」と呆れ気味だ。

「油断するな。これでも奴もプロだからな」
「言っても、『情報屋』でしょう? 見た感じ貧相だし、得物も無ェし、さっさと終わらせた方が得策ですって」

「なにぉーうっ、僕ぁこう見えてもイケメン神拳の継承者でぇ、その気になればここから一歩も動かず全員アタタタッできちゃうんだぞおッ。悪いことは言わないから今すぐ解放するんだッ、ていうか介抱して、あと一杯お水くださいお願いします」

 「そうか。わかった」と神田が腕を上げると、部屋の奥からバケツを持ってきた青年が、拘束した酔っぱらいの頭に冷や水をぶちまけた。
 整えていた金髪は一瞬でしおれて、「ちょっとサービス精神溢れ過ぎなんですけどッ」と抗議の垂れ目が覗く。

「もおッ、ここまでおもてなしの力加減を間違えたぼったくりバーは初めてだよッ。でも女の子がみんな可愛かったんでオッケー! ね、ちゃんとお金払うから、僕のケータイ返してよぉッ」

「……裏警備会社ロスキーパー、情報部室長《道化師ジョーカー》フォックス」

 低い声は淡々と、台本を読み上げるかのように機械的にそれを告げる。

「あんたが保有している社員のデータを、俺達に流してくれ。もちろん報酬は出す、そちらの言い値で構わない」

「……ワオ、気前いいね。その目的は?」
「あんたらに守られた依頼者の数だけ、あんたらを逆恨みする輩が居るってだけの話さ」
「あっはッ、月並みだなぁ」

 縛られていない足をぶらつかせ、フォックスは「どーしよッかなー」と口元をへの字に曲げる。
 神田は胸ポケットにしまっていた自身の端末を取り出すと、それを耳にあて、現在の状況を誰かに説明しているようだった。通話相手は機械音声のように歪な響きで、言葉までは聞き取れない。男が「はい。はい、そうです」と丁寧に返しているところを見るに、上司か依頼主なのだろう。

 どうやら以後は通話相手の指示通りに動くことにしたらしく、通信を繋げたまま、神田は再度フォックスに向き直った。

「選択権はあんたに有るが、五体満足で帰れる選択肢はそう多くない。お互い、手短に済ませたいだろ?」

「確かにッ! 僕にも、早朝のお天気おねーさんの私服コーデを生実況する使命があるからねッ。いつまでもこんな、"東京湾上に浮かぶコンテナ船の貨物"になってる場合じゃないのさー」

 事も無げに現在地を言い当てた酔っ払いに、男達は一瞬息を呑む。図星だと感付かれないようすぐさま表情を取り繕うが、端から確信を抱いていたフォックスにはあくびが出るほど無意味だ。

「……随分と余裕なんだな。まるで、仲間が来るのを待っているみたいに」
「ありゃ、バレちゃった? いやー僕ッてば有能だからさッ、必死こいて助けが来ちゃうわけよぉ。なんで残念でした、おにーさん達も早く帰ってさ、負け組なりに反省会しよッ?」

 酔いの回った赤ら顔でケラケラ笑う情報屋の横っ面に、今度は裏拳が振り抜かれる。これで多少は大人しくなるかと思いきや、「殴ったねッ、二度もぶった! 親父にも一万飛んで七百回しかぶたれたことないのにーッ」「逆に引くわ」奴の頭のネジがあらかた紛失した原因が判明しただけだった。

「この場所だって既に特定されてるしさー、ぶっちゃけ時間が無いのはおにーさん達の方だよッ? そっちも一応プロなら、引き際は見極めないと――」

『……個別救難シグナル、エマージェンシーコード《電脳依存サーバ・ホリック》』

「へ?」

 神田が突き出した端末のスピーカーから、歪な機械音声はそう言った。瞬間、フォックスの顔に張り付いていた笑みが僅かに固まる。

『アナタのように有能で、非力な社員のために、設定されている緊急連絡システム。個々人に定められた条件を満たすと、会社へ即座にSOSが届く。アナタの起動条件は《携帯端末が、5分以上操作されないこと》だ』

「……どうして、それを」

『優秀なアナタならもうお分かりでしょうが、助けは来ません。救難シグナルは届いていませんから。……では、最初の問いに戻りましょうか?』

 神田が顎で示した先、手下の青年が握り締めている端末は、間違いなくフォックスのものだ。ロックは解除できなくとも、適当に電源のオンオフを切り替えているだけで、救難コールの起動は回避できる。
 社員を守るために用意されたこの緊急用システムは、文字通りの命綱だけあって、たとえ同僚間でも他人の起動条件を調べることは出来ない。情報部の社員すら、だ。

 数秒間だけ口を真一文字に閉ざしていたが、やがてゆっくり深呼吸するように溜息をつき、フォックスは「…………わかった」と低く。

『売りますか、アナタのお仲間の情報を』

「まぁねー、ぶっちゃけ僕は好きで入った会社じゃないしッ。ウチの上司みたいな社畜精神ゼロだからねッ、フツーに考えて自分の命が一番っしょ? そもそもアイツ大ッ嫌いなんだよ! 頭固いし口うるさいし、すぐ手を上げるし足は臭いしッ!」

『いや、何もそこまで』

「あの野郎、仕事のためなら部下も平気で捨てるんだよッ! やってらんないわー頭おかしい上司持つとマジ大変だわーッ。ねぇ、君もそう思うでしょ? ――――穴熊アナグマ

 端末の向こうで息を呑んだ音は、誰にも聞かれることはなかった。にもかかわらず、囚われの男は愉快犯のように口元を引き上げる。

「残念だなぁッ、君のことは可愛い後輩だと思ってたのに! よりにもよって同じ部署の仲間にこんな仕打ちをされるなんて、悲しくて涙も出ないよぅッ」

『アナグマ? 何です、動物園時代のお友達ですか?』

「いいや。社員番号1744、本社情報部第二班長。穴熊。確か本名は、椙谷仁史スギタニ ヒトシだったっけ? あッは、男にはあんま興味ないからさ、君の実家の住所までしか調べてないやぁ」

 端末の向こうの沈黙が長くなる。それを良いことに、フォックスは「お母さん元気? また介護疲れで倒れてなーい?」とまるで近所の世間話のようにまくしたててくるではないか。
 "会社専属の情報屋"をまとめた総称でしかない『情報部』では、個人で仕事をするのが基本で、社内での交流もほとんど無い。その職業柄、同僚にすら素性を一切教えない。

 機械音声の主――穴熊は、歯ぎしりの音を通さないよう、つとめて冷静に切り返した。

『山勘の上に脅迫返しとは、噂の情報屋も大したことはないようですね。ですが聞いてあげましょう。何故、私がアナグマだと?』
「その黒幕ぶった喋り方疲れない? もうネタバレしてんだし、いつもの調子でいーよッ?」

 今度は端末が何かを言う前に、フォックスのこめかみに黒の銃口が押しつけられた。雇い主の心情を察せる辺り、おそらく穴熊とは短い付き合いではないのだな、と神田を見上げて肩をすくめる。

「……ねぇ穴熊(仮)ちゃん。その、僕の救難シグナルの起動条件、どうやって知ったか覚えてる?」
『は?』
「ほら僕ってさ、情報部のみんなと仲良いじゃんッ? 穴熊のこともマブダチだと思ってたからさー、だから"情報部の全員に、それぞれ僕の起動条件をこっそり教えてる"んだよねッ。あ、ちなみに全部ウソだけど」

 悪戯をしかけた少年の如く、とっておきの秘密を打ち明けるような気軽さで、男は笑う。

「偽物のエマージェンシーコード、《電脳依存サーバ・ホリック》は確かNo.87だったかな。それを伝えたのは君だけなのさ、穴熊!」

 「ぷぷッ、そんなのを素直に信じちゃって、ホントに君は可愛い後輩だったなぁ!」と、明らかに悲しみではない涙を目尻に溜める男を、自らの拳で殴れないことを穴熊は心底後悔した。遠隔カメラで高みの見物をするはずが、これではまるで、こちらが辱められているようだ。

『……とんだイカサマ師ですね。あんたは、初めから、誰も信用しちゃいなかった』

「あはははッ、じゃあ誠心誠意の権化たるこの僕から、先輩として最後のアドバイスをあげよう! ――自分で手に入れたデータ以外、この世の一切は虚構なんだぜ」

 水を吸った前髪から覗く眼に、一瞬、狡猾な獣が宿る。
 殺気どころか怒気すら出せない非力な男は、あらゆる自由を奪われながら、凶器を押しつけられながら、この場の全員を鼻で笑っていた。

『言いたいことはそれで全部か、室長』
「僕の話のネタが尽きたこと、生涯で一度でもあったと思うッ?」
『なるほど、愚問だったな。……神田』

 呼ばれただけで役割を理解した神田は、背後の青年に、貨物室の外で待機するよう伝える。部屋の隅で用意していたブルーシートとドラム缶だけ残し、青年は見張り番のため退出していく。

『得意げな名探偵ごっこは楽しかったか? 下手に感づかなければ、"情報漏洩の裏切り者"程度で追放してやろうと思ったのに。口は災いの元とは、あんたの為に生まれた言葉に違いない』

「初めっから"始末屋"を手配しておいて、よく言うなぁ」

『……あんたのそういう、人を小馬鹿にした、イカれたノイズが心底嫌いだったよ。なのになんで、あんたがナンバー2なんだ。なんであの人の右腕になれんだよ! あんたがっ、あんたさえ居なくなれば俺が……!』

 穴熊の、胸を掻きむしるような吐露すらこの男は煽るのだろう、と神田は銃口の先の表情を一瞥する。だが意外なことに、フォックスの寄せられた眉は心からの憐憫だった。
 そのまま静かに一息吐くと、「やめときなよ」と仄暗く。

「アイツの補佐なんて仕事、僕は諸手を挙げて譲りたいくらいだけどさ。けど、ダメだよ。だって君、情報屋に向いてないもん」

『これ以上馬鹿にするのか! この俺をッ! いいか、《社内に救援要請が届いていない》のは事実なんだ。誰にも救われず、知られもせず、東京湾に沈められる気分はどうだ? 強がりもいい加減にしろこの道化め!』

 とうとう激情を隠す気すら失せた、デスクを叩きつける音が端末越しでもけたたましく。潮時を察した神田が「では、始めます」とだけ伝えて、手袋をはめ直す。

『徹底的にやってくれ、死ぬまで痛めつけて殺せ!』
「オプション料がかかりますよ」
「その追加料金上乗せしたら、僕の棺桶をドラム缶からもうちょいグレードアップできるッ?」

 フォックスの軽口はもう相手にしないことにしたのか、始末屋は仕事道具の中からハンマーを取り出すと、真顔で男の前に立った。これから始める作業の手順のみを考える、プロの眼になる。
 「あーあ」と名残惜しそうに大きく肩をすくめると、フォックスは処刑台に立つ罪人のように神妙に、ゆるゆると頭を垂れた。

 ――――そこで、穴熊のモニター映像は途切れる。





『……い! おい神田ッ、ど――た! なんだ、何があった!?』
 潮風をはらんだ粉塵から、雇い主の焦燥が響く。それが聞き取れていながら、否、ただ聞いていることしかできない始末屋は、壁にもたれながら己の折れた四肢を見下ろす。

 みるみる内に遠のく赤い視界の先、最後に神田が捉えたのは、"情報屋と全く同じ顔で、木刀を握った男"の姿だった。



「ちょっとォ、遅かったんじゃないッ?」
「アホか。いま何時やと思てんねん」
「なんかずぶ濡れだけど、まさか東京湾泳いで渡ってきたとか言わないよね?」
「……誰の! せいやと!! っちゅーかアンタまた勝手にワイの顔使いおって!」
「あぎっ、痛っ、いひゃい引っ張ららいでっ、かお剥がれひゃうーッ」

 ジャージ姿のヒーローは、部屋の中央で縛り付けられているフォックスを見つけると、まずその顔を両頬からつねってきた。髪色から目元まで同じ造形をしているせいで、端から見れば双子の兄弟喧嘩としか思えない。
 フォックスが歓楽街へ繰り出す際、顔を偽装するためによく"モデル"にしている、そのご本人登場だ。おかげで見知らぬホステスから度々声をかけられて困る、と妻帯者の彼は泣く。

 男はまだぶつくさ言いながら、フォックスの背後に回る。始末屋たちにそうしたように、木刀を軽く薙いだだけで、風が鋭利に切断されたのが分かった。
 ロープが斬られたことでようやく自由になった両腕をうんと伸ばし、ついでのように、足下に転がってきた神田の携帯端末を拾い上げた。始末屋に奪われていたフォックス自身の端末も、何だかんだ律儀な彼が投げ渡してくれる。
 水を得た魚、とばかりに片手だけで操作を始めながら、未だに状況が掴めずにいる穴熊の声に応えるべく。

「こっちで何があったか知りたいッ? まぁ端的に言えば僕の勝ちさッ、最初からね」
『どうしてだ、あんたの救難信号なんか……!』
「とっくに出してたよ? 僕のエマージェンシーコード《放送事故ノイズキャンセラー》はねッ、僕が《3分以上声を発しないと起動》して、特定の人間にだけ送られる仕組みなんだ」

 とんとん、と体内発信器が埋め込まれた喉を指すが、既に全ての監視カメラを吹き飛ばされている向こうには見えようがない。にもかかわらず、フォックスは長い脚を組み、未だに一歩もそこから動かないままニタリと笑う。

「僕が酔ったら大人しくなるタイプだと思ったッ? ざーんねん、バリバリ頑張って息止めてました~!」
「呼吸まで止める必要あったん?」
「え……息を吐くとうっかり喋りたくならない?」

 「ならんわ」「息を吸った拍子に笑いたくなるでしょッ?」「ならんわ」互いに、心底理解できないものを見る目つきが交差する。フォックスにとっては、割と骨身を削るような起動方法だったらしい。そのまま窒息してくれても良かったのに、という感想は胸の内に留めておこうと思う。

「さて穴熊、いつまでもそんなきょとん顔してる場合じゃないぞぉうッ。君、かくれんぼは得意かな? "元"同僚のよしみだ、100秒だけ待ってあげよう! 僕の眼でも見つけられない場所へ逃げ果せたら君の勝ちだよッ、しかもなんと豪華景品! 明日の朝日が拝めちゃうッ」

『はっ? な、おいっ』

「尻尾を巻く準備はオーケー? それじゃーカウントスタートぉッ!」

 端末の向こうで、乾いた銃声が一発響いた。スターターピストルにしては的確に部屋を撃ち抜いたらしく、穴熊の悲鳴と必死な物音が続く。
 コメディ映画の観客のように腹を抱えて笑うフォックスを尻目に、気絶している始末屋たちを縛り上げていた男は。

「わざわざウチの《鬼札ジョーカー》に噛み付いてきた割には、随分とお粗末な子やったけど。まァまだ若いし、あんま酷い様にはせんといてな」

「どーだろ、それはアイツ次第だからなぁ。『社内の不穏分子を掃除する』からって、僕を撒き餌にするようなヤツだよッ? おかげで連日入れ食い状態さ、やっぱ有能だとつらいなー!」

 それは造反者というより、単にフォックスへの私怨を持つ者が大半だったりしないか。明らかに囮役の人選ミスなので、あとで情報部の部長には再検討を提案しようと思う。

「大体、そういうことなら初めから連絡しぃや。夜中に飛び起きたやないか」
「いやー、そうそう君みたいな支部長クラスは呼べないよッ。情報部うちも予算があるからねー」

 眼球は端末の画面を追うことに集中させたまま、フォックスの口元がへらりと笑う。目の前に立った男の渋面には気付かずに。

「……たかが悪友助けに来るだけで、一々経費申請してられんわ」

 そう、口にするのも心底嫌そうにしながら、彼は手を差し伸べていた。
 フォックスは僅かにぽかんとした後、気まずそうに眼を泳がせて。やがて観念して、少年のようにはにかむ。

「そういうところが君の甲斐性なしの原因なの、分かってる? しん
「やかましい」

 立ち上がらせた勢いのまま軽く後頭部をはたかれて、アルコールの回った脳に響く。
 ふらついた足取りに肩を貸してくれるこのお人好しは、ただの腐れ縁を本気で友人だと思い込んでいるのだ。
 二日酔いを待つまでも無く、頭が痛い。外道だ畜生だと真っ当な評価を受ける、生まれついての情報屋うそつきすら案じてしまう、この、底抜けな悪友のことで。

「あーあ、酔いがさめちゃったなーッ。ね、久しぶりに一杯どお?」
「じゃ、あんたの奢りな」





「セクシービキニ猫娘カフェと、ロリババアSMパブのどっち行きたい?」
「何その性癖の闇鍋みたいな選択肢!?」


――――END――――
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