番外短編

  泡沫  

「わぁーっ、見て見て澪斗ぉ!」

 普段より輪をかけてはしゃぐ希紗が、目をきらきらとさせながら巨大水槽に駆け寄っていく。
 澪斗には、揺らぐ魚の羅列にしか見えないそこに、彼女は頬をすり寄せながら。

「これが噂の超強化アクリルガラス~! この純度、強度、薄さ、いいなぁ~これ欲しいなぁ~!」

 床で駄々をこねる子供のような声を出してこちらを見てくるので、完全に他人のフリを決め込んだ。この水族館の土産物店に、強化ガラスが並んでいるとは考えにくい。

「これで澪斗の照準グラスを作れたら、たとえ目の前でダイナマイトが炸裂してもヒビ一つ入らない強度に出来るのにぃ!」
「眼鏡以外何一つ俺が残らないだろうがな」

 彼女の首根っこを掴み、「いい加減、悪目立ちする言動は控えろ」と釘を刺す。これでは何のために、わざわざ"一般的なカップルに扮装"するため、希紗と組まされたのか分からない。

 若い男女でごった返すこのナイト・アクアリウムが、薬物の取り引き現場として使われているらしい。『恋人たちのサンクチュアリ!』と特に根拠の無い看板を掲げてまで集客している施設クライアントにとっては、迷惑極まりない話だ。
 もし本当に売人が来ているのなら、秘密裏に排除してほしい――それが、今回彼らが受けた仕事である。

 しかし私服で巡回するにしても、男一人でうろついては不審がられる。「男二人では尚更だな」「なら純也に女装させれば良くねぇ?」「それはそれで女児誘拐にしか見えへんよ……」と行き詰まりかけたミーティングの中、しびれを切らした希紗がデスクを叩いて立ち上がった。
 「いやフツーに私で良くない!?」と。

 ……と、いうわけで。
 私服巡回という名目で、澪斗と水族館デート(偽)ができることになった希紗の胸中からすれば、これでもまだ表面上のテンションは抑えめな方だった。
 二人を組ませようと、「遼には、女装した僕と組んでもらうから……!」と応援してくれた純也の友情と男気に報いるためにも、絶対にこのチャンスをものにせねばならない。

「遊びではないぞ、予定のルートを外れるな。貴様は現場の巡回に関しては素人も同然なのだ、黙って俺の後に続け」

「うん、じゃあ次はイルカショーね!」

「…………応答しろ真。希紗の耳か脳に深刻なエラーが発生している」

『あァ落ち着け希紗、ルート的にアシカショーなら寄ってもエエから』

「寄らんぞ絶対!」

 憤慨する澪斗のイヤーカフス型無線機から、上司の苦笑いが聞こえる。希紗の代わりとして監視モニターを担当している真は、『そんなカリカリせんでも大丈夫やってー』と呑気なものだ。

 平日の夜だというのに客は増える一方で、これでは魚を見に来たのか人間を見に来たのか分からない。狭い通路ですし詰めにされている澪斗たちを、ガラスの向こうのクマノミが涼しい顔で眺めていた。
 初日にして嫌気が差し始めた澪斗は、「次に進むぞ」と足早に先のフロアを指さす。人混みをなんとか掻き分けて付いてきた希紗が、それを見て「あっ」と声をあげた。

「どうした、不審者か?」
「えっ、いや、そういうのじゃないんだけどー……」
「では何だ」

 眉間にシワを寄せた男に、彼女は下手な苦笑いで誤魔化す。
 目の前にぽっかり空いている巨大な穴は、この水族館の目玉、『海中歩道』の入り口だ。深い水槽を横に貫いたような、透明なトンネルになっており、歩行者の上下左右を魚たちが行き交う。
 そして。この歩道を『手を繋いだまま渡りきると、二人は結ばれる』というジンクスこそ、ここを訪れるカップルたちの八割、いや十割方の真の目的なのである。

 トンネルの前でしどろもどろになる希紗を睨み下ろし、澪斗は「具合でも悪いなら帰れ」と一人で行ってしまいそうになる。

「まままっ、待って! っ、てっ、ててっ」
「て?」
「この道はっ、二人で手を繋がないもの渡るべからずだから……!」
「一休か貴様」

 「う、嘘じゃないわッ」と裏返った声をあげながら、希紗はトンネルに入っていく客を指す。
 確かに彼女の言うとおり、入り口へ消えていく男女は皆、何故かやたらとくっついているではないか。

「だが、パンフレットにそのような記載は……」
「これは暗黙のルールっていうかッ、むしろここで手を繋がないと逆にモグリを疑われるみたいな!?」
「本当か……?」

 澪斗の心底訝しげな目に、希紗の胡散臭い笑顔をだらだらと冷や汗が流れる。だがこんな千年に一度あるかないかのチャンス、なりふり構わぬ詭弁と暴論と勢いで押し切るしかない。

「さぁ行くわよ澪斗っ、これも仕事なんだからね!」
「おい引っ張るなっ」

 右手で彼の手を取り、水中トンネルに一歩踏み出す。
 大人が五人は横に並べる直径で、距離にして約50メートル。ガラス張りの足元をエイが通り過ぎ、すぐに真っ暗な海底へと消えて行った。この時間は夜の海を再現しているため、光源はほとんど無い。唯一、満月を模した照明のライトが、頭上からゆらゆらと降る。

 だが、銀に瞬く魚群も、巨大な影を落とすサメも、希紗の目にはほとんど映っていなかった。というか、目の焦点が合っていない。
 つい勢いに任せ手をとってしまったが、今になって震えが止まらない。手の汗も止まらない。今すぐ手を離して汗を拭きたい衝動と、喉から飛び出してしまいそうな心臓をぐっと抑える。

 男性としては線の細い外見に反して、澪斗の手は大きく、指も筋肉質だ。「澪君は着痩せするタイプ」とは純也談で、時折触れる腕も硬くて温かい。
 仕事のために徹底して無駄を削ぎ落とした肉体が、彼の生真面目さを雄弁に物語る一方で、それは私生活の薄さも表していた。

 希紗が支部に配属されたばかりの頃――まだ、こんな厄介な恋煩いをしていなかった時期――に、雑談がてら「休日は何してるの?」と尋ねたことがある。初めはそんな会話すら無視され続けたが、しつこい希紗に根負けした澪斗は、溜息混じりに「特に、何も」とだけ。
 当時は「適当にあしらわれた!」と拗ねていたものだったが、同僚としての歳月を経る内に、あれは決して嘘ではなかったのだと気付く。

 まるで"仕事以外のことを知らない"かのように、澪斗には人との交流も、娯楽も、趣味も何も無い。楽しみや癒やしを求めようとすらせず、ただただ真っ直ぐにしか歩けない彼の心が全く理解できなくて、だから、理解したくなった。

 そんな些細な想いがきっかけだったのだから、好奇心は猫をも殺す、とは実に金言である。

「あー、そのー……さ、魚いっぱい居るね!」
「魚のいない水族館があるのか?」

「いやこの距離で見ると大迫力っていうかっ、ちなみに私あんまり泳げないからちょっと怖くもあるんだけど、サメ映画は結構好きでッ、あとタカアシガニってクレーン車に似ててテンション上がるんだけど澪斗はどの魚が好き!?」

「……興味無い」

 せわしなく脈絡もない希紗を、澪斗は吐息一つで一蹴する。

 それもやはり、本音なのだろう。希紗の胸が痛くなるくらい、彼には嘘が無い。
 引いていた手を弱め、彼女は足を止める。男が眉根を寄せて何か言う前に、俯いた顔から「あ、あのねっ」と声が上ずる。

「澪斗は違うかもしれないけど、迷惑なだけだったかもしれないけどっ。わたし……私、いま、すごく楽しいよ」

 ようやく顔を上げた彼女の瞳は、月の照明を受けて、水面のように揺らめく。目元が赤らんでいるように見えるが、暗さのために確信は持てない。
 何より。
 今にも泣きそうな顔を歪ませてまで、くしゃりと笑う彼女の胸中が、男には全く解らなかった。

 虚をつかれた澪斗の唇が、言葉を紡ごうとした寸前。希紗は目を見開いて、彼の胸に抱きついた。

「な!? おい、貴様いい加減に……!」

「――しッ。動かないで。私たちの二組後ろ」

 反射的に身体を強張らせた澪斗も、彼女の言葉にすぐさま声を落とす。「……ターゲットか」「たぶんね」希紗は彼の肩越しから片目を覗かせ、暗闇の中、僅かにぎこちない男女の姿を観察する。

「……真、聞こえる? 髪はセミロング、ワイシャツ、OL風の女が売人。客は紺のカーディガンの男。ブツの手渡しを確認」
『了解。トンネルの出口に遼平たちを向かわせる』
「それなら左手に、関係者入り口があるからその前に居て。私たちと挟んで確保、騒ぎにされる前にドアへ押し込むわ」

 対象に怪しまれるので振り向けない澪斗は、彼女の表情を見下ろしていることしかできない。状況を淡々と伝える希紗の目は、真剣そのものだ。

 確かに、このアクリルガラスのトンネルには、監視カメラが設置されていない。加えて夜の海を模した暗さ、"手を握っていない方が不自然"という環境。売人が、顧客と待ち合わせてやりとりするには打ってつけだ。

 だが常に監視室のモニターを担当してきた希紗は、一度に何十、何百という人間の顔を見ながら、不審者を割り出せる。
 たかだか視界いっぱいの人混み、足下さえおぼつかない暗闇など、彼女の観察眼の前では何の障害にもならない。

 それを見越しての上司のあの余裕か、と気付くと、澪斗は今になって無性に腹立たしくなってきた。思わず漏れた男の溜息を誤解し、希紗が焦って身体を離す。

「ごっごめん、いや今のは咄嗟にっていうかホント変なつもりはなくてッ、不可抗力な役得とかじゃ――」
「静かにしろ」

 釈明のため顔の前で振っていた手を、澪斗に掴まれる。そのまま、今度は希紗の指を覆うようにしてしっかり繋がれた左手を、彼女はぽかんとフリーズしたまま見つめていた。

「……最後まで気を緩めるな、ここで感付かれれば水の泡だぞ」
「水族館だけに?」
「うるさい」

 ぎりぎりと握力を強めてくる男に「い痛い痛いごめんって!」とギブアップのつもりで腕を叩くが、どうやら最後まで手は離してくれないらしい。
 ターゲットの背後に回りつつ、徐々に近づいてくる出口の光に目を細める。澪斗の歩幅に合わせれば、あと十秒とかからないだろう。

 このまま時間が止まればいいのに――――なんて、健気な少女じみた願いを希紗はしない。
 彼は歩みを止めないし、真っ直ぐにしか進めない。だからこそ意地でも付いていき、ちょっかいを出し、いつか首をへし折る勢いで振り向かせてやると、心に決めているのだから。

 偽物の月が隠れて、水面を抜けて、二人の手が自然とほどけても。
 たぶん、ずっと、うんざりするほど。まだまだ先は長くて、この騒がしくて厄介できらきらした瞬間が続いていく。


――――END――――
Web拍手   Index
inserted by FC2 system