番外短編

  夕焼けに牙を研げ  

「じゃーん! ここがまち一番の『シブヤ山』だよ!」

 満面の笑みで少年が指さしたそれを、隣の小さな影が見上げる。『クロ』などと野良猫じみた通り名を付けられる所以となった、黒曜石の釣り目で。
 やがて、街の住民達から『シロ』と飼い犬的な愛称で呼ばれる少年へ、ゆっくり視線を移すと。

「……つばさ。ここで残念な知らせがある」
「えっ、なになに?」

「“これ”を世間一般では、『ゴミ山』と言う」

 崩れたビルの鉄筋に廃棄自動車を積み上げ、粗大ゴミをトッピングした、文明社会の排泄物によるデカ盛りと言ってもいい。「塵も積もれば何とやら、の貴重な現物サンプルではあるがな……」とクロはフードの下で嘆息した。

「でもね、ここのてっぺんはすっごく高くて、まちが遠くまで見えるんだ! 困ってる人がいたらすぐ分かるし、空に近くて、おれのお気に入りの場所なんだよー」
「ああ、何とかと煙は高い所に上ると言うしな」

 諺なんてものは、ただの誇張表現と思っていたが。こうも実物を見せつけられると、クロも先人の的確さを認めざるを得ない。

「まぁ構成材料が何であれ、この程度の高さは山とは呼ばねェんだよ。元々『渋谷』は、名の通り谷間にある街だ。そこら中に坂があるせいで、高低の感覚が掴みにくいだろうがな」

 説きながら辺りをぐるりと見渡し、再びシロに振り向くと、そこには少年の影も形も無かった。代わりに「ねぇ見て見てー!」と脳天気な声が降ってきて、視線をやると遙かゴミ山の頂で手を振っている。
 ほんの一瞬で瓦礫を登りきった友人の、無尽蔵の体力と軽率さに、ただただ落胆が漏れた。

「あの阿呆……だから『とりあえず動いてみるな』と言ってるだろうが! 崩れでもしたらオレ様まで巻き添え喰らうじゃねえかっ!」
「だいじょーぶだよー、おれ小さい頃から登ってるしー! いい景色だからおいでよー!」

 シロがぶんぶんと手を振り声を上げる度に、彼が立つ横倒しの冷蔵庫が左右にぐらつく。「わあった! 分かったから動くな、待て!」と腹の底から指示を飛ばすと、本当に飼い犬よろしくお座りの姿勢で待たれるから、その無垢な瞳に抗えなくて困る。
 殺気立った日射もようやく和らいだとはいえ、何を好き好んで太陽に近付こうというのだろう。イカロスかあいつは。

 クロ自身も溜息か深呼吸なのか判断できない一拍の後、そびえ立つゴミ山を睨み上げた。足場に出来そうな部位を見極めると、突き出した鉄筋、看板、軽トラックの荷台へと身軽に跳ねていく。
 確かに見た目よりは安定していたが、それでも僅か数秒で駆け登れるような代物ではない。というか、そもそもこれに登りたいという発想が解らない。
 そう考えながらも見事に踏破してしまったクロを、山頂でシロが両腕を広げて待っていた。感動のゴールを求めてくるその腕を、いつも通りするりと躱して、先の景色を見やる。

 ――――何のことはない。予想と寸分違わぬ、枯れ果てた死の街スラムだった。

 眼下に広がる瓦礫の街路に、虫か黒ずみのように点在する住人達。落ちかけた陽を遮る、隣区のネオン街がタチの悪い蜃気楼のようだ。
 あまりに鮮明に、残酷に、『この街』がわかる。安易に今日の務めを終わらせようとしている西日を借りて、網膜を焦がさんばかりに目に焼き付けた。

「……ありがとうな。ここに、連れてきてくれてよ」
「気に入ってくれたっ? 良かったぁ、今までだれも来たことないトクベツな場所だから、ちょっと不安だったんだー」

 クロの言葉のトーンには全く構わず、彼は冷蔵庫に腰掛けたまま、長い脚をぶらつかせる。どうやら友人の分だけ端に寄っているらしく、そのままバランスを崩されても面倒なので、クロも冷蔵庫の角にちょこんと座る。

「そんな大事な場所に、オレみてェな新参者を易々と招待すんなよ。疑心暗鬼になれとは言わねえが、お前のオツムは無防備すぎてこっちが心配になるぜ」

 「そう考え無しに他人を信用してっと、いつか痛い目にだな……」と自分でも耳にタコが出来ている説教を始めるが、今日も今日とて隣人には届かない。

「ちがうよ! おれ、だれにでもここ紹介するし!」
「じゃあ特別感ゼロじゃねえか!」

「ううん、でもね。おれが誘って、ほんとに“ここ”まで登って来てくれたのは、きみが初めてなんだ」

 こちらへ顔を向けてきた少年の、灰白色の髪に、暖かな橙が染み込む。
 先程までクロの目に、怒りの炎として映っていたはずの色が、友の微笑みを介すだけでこんなにも優しい灯火に変わる。

「ありがとう。いつか、だれかとこの景色を一緒に見たいって、ずっと思ってたんだ」

 「それがきみで、すごくうれしい」臆面もなくそんなことを言い出すものだから、小さな友人はバツが悪そうにそっぽを向いて。

「別に、お前のためじゃねえよ。何とかと煙は高い所が好きなだけさ」

 西へ足早に去る灯火を、引き止める雲は一つも無い。
 おそらく明日も、無慈悲なほどの晴天だ。


――――END――――
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