依頼3-プロローグ 『ようこそ』

  ≪恩讐よ、蒼へ還れ≫  


 次のニュースです。
 先月一日より施行された新法により、東京都渋谷が全国初の『特別保全区』に指定されました。
 これにより恵比寿、代官山、鶯谷、宇田川町といった旧山手線沿いの指定地域は、渋谷区の自治範囲から除外されることになります。
 ここ数年の急激な治安の悪化を受け、区が国に要望書を提出したことで実現した新法で、一時的に国が直接管理下に置くことで犯罪率や貧困問題の改善を進めるものです。また警視庁も、個人の身の安全を守るため、指定地域内への立ち入りは極力避けるよう呼びかけていくとのことです。
 一方、今回の新法に野党や一部の有識者からは「貧民街が犯罪の温床となるのを助長するだけだ」「事実上の隔離ではないのか」などの声があがっており、当局の世論調査では――、ト、「やや賛成」が27パーセ――――れを受けて――株価に、も――――首相は……



 深々とかぶったフードに手を入れ、とうとうノイズしか届けなくなったイヤフォンを外す。通信端末を確認すると、歩を進めるにつれ電波状況が悪くなるのが見てとれた。
 意図的にインフラを断たれ、首都のど真ん中にありながら存在を抹消された街。表社会の誰もが恐れ、嫌悪し、諦めた街。

「……ま、百聞は一見に如かず、ってな」

 今やスラムの代名詞と化した"シブヤ"の入口に、炎天下に晒された小さな影が一つ。
 くすんだ外套の内側から漏れた声は、どこか愉しげですらあった。


◆  ◆  ◆


 道端に横たわる男児に、老婆が手を合わせてすすり泣いている。泣きながら服を剥いでいる。とうに意味を無くした電柱から、老婆を急かすカラス共の声が降る。
 路上の物陰に点々と座り込む人々も、微かな足音に反応して目線を上げるが、それがぼろを着た子供と分かるとすぐまた首を垂れた。

 割られたショーウィンドウの奥で、かつて流行の最先端を纏っていたマネキンがこちらを見ている。微かに開いたマンホールの下から、腐敗臭に混ざって香るニコチンとシンナー。街の中央にある駅跡まで来ると、有名だったらしい犬の銅像は移転され、台座だけが墓標のように残されていた。

 「ンなもんより先に、救い出せるものが幾らでもあったろうによ」

 台座の後ろにもたれていた、熱にやられたのであろう老人の瞼をそっと閉じさせる。ここへ来るまでに、一体何人見た。砕けたアスファルトの上で、さながら干からびたミミズのような自然さで、誰の目にも映らなくなってしまった人間を。

 『特別保全区』など、何も騒ぐことじゃない。遅すぎたくらいだ。
 十年以上前から世間では、子を叱る母親に「悪いことをするとシブヤにつれていく」という脅し文句があったと聞く。
 この街はとうに見捨てられていて、そんなことは内外の住民達も皆知っている。ただ行政機関が"手を引いて良い"言い訳が出来た、それだけだ。
 もう何年もこの街の有様は変わらず、そして今後も変わることは無い。そんな、安らかな死すら諦めた住民達の眼は、皆一様に灰色の地面に向いていた。

 短い悲鳴が聞こえたような気がして、旧交差点へ振り返る。倒れ込んだ女の髪を掴み上げ、怒声を張り上げる男が三人。なんだか久しぶりに動く人間を見た気がする、と子供は妙に感慨深げにその様子を眺めていた。

「ちがうの、見逃して、もうしないからッ」
「ざけんなこのクソアマぁ!」

 周囲には、子供と同じように遠巻きにそれを見ているか、あるいは視線を逸らす者はいても、誰一人として彼等を止めようとはしない。そこには後ろめたさすら無い。女はうずくまって許しを請うばかりで、"周りに助けを求める"言葉など知りもしない。
 住民の誰もがヒトとしての尊厳を、信念を、希望を捨てた街。


悪漢無頼あっかんぶらい――――反吐が出らぁな」

 声変わりも遠い、幼い声が彼らの背後でせせら笑った。
 聞いたこともない冷然とした音に、男は女へと振り上げていた拳を止める。頬のタトゥーを歪ませ、「あぁッ?」と腹から凄んでみたものの、そこに居たのは細身の子供一人。

「ガキ……テメェ、いま何つった?」
「おいおいこの距離だ、聞こえたろ? それとも辞書が必要か? まぁどのみち気にしなさんな、お前さん方ロクデナシに言葉が通じるたぁ端から期待してねェからよ」

 砂塵がフードを揺らし、垣間見えたのは黒曜石の眼光。外套の下から伸びる脚には、幾重にも包帯が巻かれている。だがその挑発的な言動とは真逆に、ぽつんと立つ風体はあまりに頼りない孤児そのものだった。
 だから、というわけでもなく、ただ彼らは"いつも通り、反射的に"子供へ殴りかかる。あまりに何の躊躇いも無い攻撃に、子供側も「お?」と間の抜けた声を漏らした。
 だが青年二人が揃って突き出した拳は、大きく空を切る。決して視線を外していないのに、前面に広がる旧交差点のどこにも、あの小さな影が無い。

「……うん、成る程な、大体"ここ"が解ってきたぜ。その猪突猛進ぶり、オレ様は嫌いじゃねェが――」

 音源の近さに、気温のせいではない汗が背を伝う。目を見開いたまま振り返れば、まだ女の髪を掴んでいた仲間の肩に、松葉色の外套がちょこんと腰掛けていた。
 跳んだ弾みでフードが落ちたのか、白日に晒された顔はその声以上にあどけなかった。襟首で雑に切られた髪は、光を注がれるほど色を濃くする烏の濡羽。顎に手をあてる仕草が妙に似つかわしく感じてしまうのは、歪められた目元が嬉々として見下してくるからだ。

「お前さん方、モテないだろ?」

 女を乱暴に投げ捨てた男が、青筋を立てて子供の頭部を掴みにかかる。が、野良猫じみた身軽さで跳び上がった、外套の端にすら掠らない。
 初めて手品を見た猿みてェな顔だな、と思ったが、流石にこの炎天下でこれ以上頭に血をのぼらせてやるのも可哀想なのでやめた。地面に伏している女の傍へ着地すると、子供は「そんな怯えるこたぁねェさ、せっかくの美人が台無しだ」と手を伸ばし助け起こす。

「……とまぁ女はこういう風に口説け。わかったかチェリー三兄弟」
「お、俺は違うッ!」
「テメなに自分だけ女持ちアピールしてんだ殺すぞ!」
「えっ、うそ待ってタケちゃんいつ卒業してたん!?」

 男達の友情に微妙な亀裂が走っている内に、子供は女の荒れた髪から砂埃を払ってやる。まだ膝をついて腰を抜かしている彼女の唇はぱくぱくと上下するばかりだが、何を言いたいかは瞳から全て知り得た。

「なぁアンタ、こんな時は何て言えばいいか知ってるか? ――『たすけて』、さ」
「た、すけ、て……?」
「よし、今はそれで上等だ。次回はもっと腹から声出してくれよ」

 女を背にしたところで、庇うどころか彼女の姿を隠せもしない小さな体躯。しかし確信か無知なのか、鋭い三白眼でぎらつく黒曜は一片の揺らぎも無い。
 思わず半歩下がった足に気付き、タトゥーの男は首をぶんぶんと横に振る。そこに見えた巨大な捕食者の影は、アスファルトが見せた陽炎に決まっていると。

 男がポケットから出した折りたたみナイフに、子供の鼻先が笑いを漏らす。「人数で勝っていても油断せず、持てる全力で潰す。いいぞ、定石だ」うんうん、と頷く様は不出来な生徒を褒めようとするそれで、鋼の切っ先が自身に向けられていることに気付いているのかも怪しかった。

「ガキ、人をおちょくるのもいい加減に……」

「こらぁー! あぶないことはダメだってばあー!」

 せっかくドスをきかせた男の声は、なんだか間の抜けた警告に阻まれた。確かにやかましい音量だったが、男が自ら口を噤んだところを見るに、今の"声の主そのもの"が原因であるに違いない。
 後ろで身構えていた青年達も同様に、すぐさま交差点の先へと振り返る。獣と見紛うスピードで、"何か"が緩やかな坂を駆け下りてこちらへ向かってきていた。

「やべぇ、またシロだっ」
「馬鹿犬め、無駄に鼻がききやがる」

 タトゥー顔の男はそう毒づくと、仲間を連れて駆け出す。すれ違い様、捨て台詞代わりに唾を吐いてきたが、子供が外套を広げたおかげで女にはかからなかった。
 逃げ去る彼等の背を一瞥したのとほぼ同時に、「ねぇだいじょうぶっ?」とすぐ隣から声がして、子供はぎょっと振り返る。ほんの数秒前、"何か"としか視認できない距離にいたそれが、息を切らすこともなく目の前に突っ立っていたのだ。

 既に成長期を終えた背格好だが、心配からすぐに安堵へ変わる分かりやすい表情は少年そのもの。この気温の中、酔狂にも長袖のナイロンジャケットを羽織っている。
 汚れのせいか地毛なのか、手入れされていない少年の髪は白っぽい灰色だ。せわしない動きと相まって、彼が"シロ"などと飼い犬染みた名で呼ばれている訳は三秒で理解できた。

「よかったぁ、だれもケガしてなくて! おねえさん、立てる?」
「えぇ、ありがとう……」

 女は少年の手を取らずなんとか自力で立ち上がり、二人に向かって何度も頭を下げる。
 「おれは何もしてないけどね~」と言いながら何故か照れている少年に手を振られ、女が立ち去ろうとした時だ。外套の下から伸びた子供の脚が、女を前のめりに転倒させたのは。

「な、なにするの!?」

「いやすまねェ、大口叩いておきながら実際アンタを助けず終わっちまったことは詫びるさ。だがな、その"慰謝料"にしちゃ、財布丸ごとっつーのはいささか多くねェか?」

 動揺で目を震わせている顔には見向きもせず、子供は遠慮なく女のシャツの裾を引き上げる。ぼとぼとと落ちてきた財布の中から自分の物だけ回収しつつ、さっきの三兄弟も元はスられた口なんだろうな、と納得していた。「素人に見破られるようじゃ向いてないぜ、アンタ」子供の吐息に憐憫が混じる。
 半歩遅れて、耳まで赤くした女は残りの財布を拾い集め、慌ただしく走って行ってしまった。

「おい焦って走ンなよ、また転ぶぞー」
「それきみが言っちゃうんだ……。でも、えっと、なんかごめんね?」
「別にお前が謝ることじゃねェだろ。それに、強かな女は嫌いじゃねえさ」

 言って肩をすくめる子供を、少年は不思議そうに見下ろしていた。身なりこそ浮浪者然としているが、かすかに纏う香りがそれを否定する。
 ぽかんと口を開けたままだった少年に、子供は含み笑いを返す。しかしそこに嫌味たらしさはなく、年相応の悪戯っぽい口元が八重歯を覗かせた。

「察しの通り、今日来たばかりの余所者だ。お前はこの街に住んでどれくらいになる?」
「えっとね、はじめから!」
「はじめ? ここの生まれ、ってことか?」
「そうだよ! ほら、ちょうどあそこなんだ」

 無邪気な笑みと人差指の先にあったのは、とうに風化したダストボックスだった。『燃えるゴミ』というステッカーがかろうじて読めるが、痩せたカラスすら素通りしていく今では何の価値も無い。

「おれ、あそこで生まれてたんだって。兄ちゃん姉ちゃんが言ってた」
「それはお前の兄弟か?」
「うーん、よくわかんない。でも兄ちゃんは橋の下、姉ちゃんは下水で生まれたって言ってたから、おれ達はきっと"このまちの子ども"なんだよ」

 「今でもたまに"生まれてくる"ことがあるんだよー、すごいよねぇ」とにこにこ笑う少年に、子供は一瞬だけ目を細める。どこまで気付いているのかは分からないが、どのみち真実を告げたところで、少年に幸せは訪れない。しかしそれでは、何も変わらない。外套の内側で拳を握り、苦虫のような真実を奥歯で磨り潰した。

「その、お前の兄さん姉さんとやらに会ってみたいんだが」
「あ……うん、そうだね、きっと二人とも喜んでくれたと思う。でもごめん……もう、だれもいないんだ」

 少年の左手が、ぎゅっとジャケットの胸元を握り締める。俯いたところで、背の低い子供から表情を隠せはしないのに。
 だが子供が何か声をかける前に、灰白色の髪ごと顔をぶんぶんと横に振り、「けど、だからね!」と彼は声を張り上げた。

「みんなが好きだったこのまちを、おれが守るんだ! いまの子たちには、同じ目にあってほしくないから」

 笑って泣いてまた笑って、表情筋を酷使しすぎだろと、子供は呆れる。手の裾で頬を拭った為に、かえって目尻まで泥がついていた。
 こんなにも狭い地獄しか知らぬまま、穴の開いたスニーカーで駆けずり回る少年を、男達は『馬鹿犬』と蔑んだ。成る程、言い得て妙だろう。

「ハッ、それでこのデカい街の中、たった独りで自警団ごっこか。ご苦労なことだな」

 「えへへ、それほどでも~」などと頭をかく少年には、皮肉どころか人の悪意すら通じなさそうだった。なんかもう存在自体が奇跡だなコイツ、と子供の方が感心し始める程に。
 腕を組んで、改めて少年をまじまじと観察する。衣服に限らず全身汚れているが、それはこの街のドレスコードのようなものだ。
 しかし唯一、決定的に、他の住民達と違うものを彼は持っている。

 太陽を受け入れ、そのまま宿さんとする、一点の曇りも無い瞳を。

「――なぁ、お前。オレ様と組めよ」
「くむ?」

「見たところ腕っぷしは悪くなさそうだが、お前がいくら瀬戸際で救い出したところでキリがねェしジリ貧だ。だからこのオレが、"街そのもの"を変える。その為にお前の手を貸してくれ」

 くすんだ松葉の外套から、更に傷だらけの右手が差し出された。子供の言わんとしていることも、開かれた手の平の意味も理解できない少年が、どうすれば良いのかと大量の疑問符を浮かべている。そんな反応に苦笑が漏れるが、けれど決して腕を下ろさない子供の目には、見守るような穏やかさがあった。

「むずかしいことはよくわからないんだけど……きみとトモダチになれる、ってこと?」
「くくっ、そうだな、そりゃあいい。一諾千金いちだくせんきん、オレ様もお前の理想に力を尽くしてやんぜ」

 瞬間、あまりに分かりやすく破顔するものだから、太陽が二つになったかと思った。子供の両脇を掴んで軽々と持ち上げると、少年は髪を振り乱しながら飛び跳ねまわる。

「ぐぇっ、やめろ! オレ様は赤ん坊じゃねえぞ!」
「しってるよ! きみは、おれのトモダチだもんね!」
「ダチが増えるごとに一々胴上げすんのかテメェはっ! いいから降ろせ馬鹿ぁ!」

 結局、少年の気が済むまで振り回された子供は、地に足がつくや否や真っ先に友人の脛を蹴り飛ばした。今日一番の力を込めたはずだが、少年は痛がるどころか体勢すら崩さず、それをスキンシップと誤解する有様だ。調子に乗って更にじゃれようとしてきたので、「暑苦しいだろうが!」と背負い投げでアスファルトに叩き付けてやった。

「ったく、とんでもねェのを盟友にしちまったもんだぜ……。で、オレ様はお前を何て呼べばいい?」

「あっ、そうだよね名前! おれ、ツバサっていうんだ! 白鷹しらたかつばさ!」

「なんだ、立派な名前があるんじゃねェか。よし、早速だが翼、オレにこの街を案内してくれ」

 つばさ、と名前を口にしてくれた幼い友に、彼は透明な瞳を輝かせて力強く首を縦に振る。名前を褒められたのも、街の案内を頼まれたのも、生まれて初めてだった。
 「うわぁどこから案内しようっ? 見てもらいたいもの、いっぱいあるなぁ」と口からだだ漏れしている思考とは裏腹に、翼の脚は既に駆け出している。
 数メートル走って、しかしそこで何かを思い出したようで、少年はくるりと振り返った。無慈悲な烈日をものともせず、蒼天と瓦礫を背に両腕を広げて。

「ようこそ、おれたちのシブヤまちへ! これからよろしくねっ」

 そうして二つの影が、旧繁華街の坂をのぼっていく。


 ―――やがて彼が永い絶望へと至る、その一歩目だったことを、終に知ることも無く。
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