依頼3-0 青の断章

  『ともだち』  

 渋谷が『特別保全区』に指定されて、一ヶ月。
 警察すら近づかなくなった街は、しかし危惧されていた暴動もなく。波乱なく、進展もなく、ただただ死していた。
 住民は夜の訪れに怯え、陽が昇れば飢える。渇き、震え、奪われ、奪う日常に、何も変化など無い。
 そう、誰もが思っていた。

 ――とうに死んだはずの街に根付いた、小さな芽が、その産声を上げる日までは。



「お前らは向こうを探せ! しょせん余所者のガキ一人だ、逃げ切れるわけがねぇ!」

 頬のタトゥーと青筋を歪ませ、大男が声を張り上げる。弟分たちをそれぞれ細い路地へと走らせて、自身もまた血眼になって獲物を探す。

 昔からただでさえキャンキャンうるさい子供、"馬鹿犬シロ"に、このところ小賢しい知恵を与えている奴がいる。身軽で口ばかり達者な、薄汚れたチビ猫だ。
 シブヤの外からやってきて、シロとつるみ、最近は我が物顔で街を駆け回るようになった。
 馬鹿のくせに、新参者のくせに、この街を"どうにかしようとしている"のが、男は心底気にくわない。ここスラムの地獄を、絶望を、何も分かっていないくせに。

 だからこれは、待ちに待った好機だ。
 "余所者クロ"に、社会の厳しさというものを徹底的に躾けてやるための。



 大通りから響く怒声と、それに呼応する幾人もの駆け足。もたれたコンクリの壁越しに聞こえてくる音は、もうそこまで来ている。
 烏の濡れ羽と同じ髪、同じ瞳は宵闇に隠せても、右腕から滴る赤は誤魔化せそうにない。

「ったく、こりゃあ……参っちまうな……」
 
 浅く速い呼吸の中で、クロは自嘲じみた笑いをこぼす。
 ここは彼らが勝手知ったる庭だ。今頃はこの一帯を捜索しながら、じりじりと包囲網を狭めているに違いない。

 ノースリーブのパーカーに、ショートパンツと運動靴。クロの容姿で、おおよそ着衣と呼べるものはそれだけだ。他の孤児との違いといえば、四肢にやたらと巻き付いた包帯ぐらい。今やそれも血と泥が染みついて、衛生とは無縁の色に変わり果ててしまった。

 傷口を押さえる左手に力を込め、よろよろと立ち上がる。
 ここで、いつまでも血溜まりを広げている場合ではない。相方に心配の一つもしてやりたいが、どうやら彼らは、完全にターゲットをクロ一人に絞ったようだ。

 片足を引きずりながら、子供でなければ通れない狭さの路地を進む。
 フェンスを這い上がろうとしたところで、錆びた金網が大袈裟な悲鳴をあげた。その音に気付いた追っ手が、「いたぞ!」と仲間を呼んでくる。

「オラオラ必死こいて逃げろよチビ助! どのみちテメェの人生の行き止まりだけどなぁ!」

 額から目に入る汗も拭えないまま、クロは最後の角を曲がる。
 彼の宣言通り、そこは光一つ無い袋小路だった。

 無造作に屹立する廃ビルが取り囲む、シブヤの深層。壁際の窓はほとんど割れているが、最も低い位置でも五メートルはある。容易に登れる高さではない。
 そして唯一の退路は、いま、追いついた大男とその手下達によって塞がれた。

「夜になったらおうちに帰りましょう、ってママに教わんなかったか? ガキが、遊び半分でシブヤをふらつきやがって。今日はこの街のルールってもんを、たっぷり教え込んでやっからよぉ!」

 言って大男は、コンクリの壁を走っていた、錆びた配管を鷲掴む。力任せにそれを引きちぎると、鈍器と化したパイプを振り、わざとゆっくり距離をつめてくる。

 ここで会ったが百年目、と言いたいところだが、実際は一月前のまだ苦い記憶だ。初対面で『チェリー三兄弟』などと屈辱的な呼び名をつけられた――そのせいで弟分はちょっと自信を無くしてしまった――あの日から、心に決めていた。
 その大人ぶった表情を滅茶苦茶にぶっ叩いて、無力なガキらしく泣き喚かせてから殺すと。

「あぁ、参ったぜ、まったく……」

 行き止まりの壁に背を預け、クロは重い溜息と共に俯く。とうとう観念したかと、誰もが確信した瞬間、子供は勢いよく頭を上げた。


「さてはテメェら――――ほんっっっっっとに馬鹿だな!?」


「…………んっ?」

 般若の形相で激高してきたクロに、大男は思わず三度、瞬きをする。
 己の丈の倍はある相手に、先ほどまで右腕を庇っていた左手で鼻先を指すと。

「数で勝っておきながら、それを自分から分散させてどうする阿呆が! 索敵の直後に、司令塔が単騎で突撃してくるな間抜けが! 完全な袋小路に敵を追い込むことほど愚策はねェぞ、だからテメェはいつまで経ってもチェリー長男なんだろうがよォ!」

 これまで溜め込んでいたものを一息で吐き尽くしたが、終始きょとん顔だった大男に、どこまで通じたかは定かではない。
 だが、問題は無い。ここからは彼が身を持って学習する羽目になる。

「はぁ……。じゃあまずレッスン1だ長男。テメェが方々に散らせた弟分どもが、"未だに合流してこないのは何故"だ?」

「っ!?」

 振り返り、男は自分についてきた人数を見やる。子供一人をいたぶるのには充分すぎる大の男四人。そう、たった四人だけだ。

 うっすらと脂汗を滲ませている間に、設問の答えが上空から落ちてくる。

 クロと大男のちょうど中間に、難なく着地したのは一人の少年だ。
 ぶかぶかのジャケットに、穴の空いたスニーカー。手入れがされたことのない灰色の髪は、確かに耳を垂らした犬のようにも見える。

 無垢な幼児が、背丈だけ成人サイズに引き伸ばされたように、相変わらず呑気な顔をしている少年。だがその両肩には、先に行かせたはずの弟分二人が軽々と担がれていた。
 拘束の必要もないと言わんばかりに、哀れな二人は口から泡を吹いて白目まで剥いている。

「タケシ! ウメキ!」
「あっ、だいじょうぶだよ心配しないで! おれとちょっと追いかけっこしたら、気絶しちゃっただけだから」

 「痛いことはしてないよ~」と場違いなまでの朗らかさを浮かべる相方に、クロはまた短く嘆息した。こいつもこいつで状況を理解してねェんだろうな、と"シロ"と呼ばれる友人を見やる。
 男が自ら切り離した戦力を、片っ端から各個撃破するようシロには伝えておいた。まさか、ただ追い回しただけで壊滅させられるとは想定外だったが。

「さて、次にレッスン2だ。完全に包囲された敵は、どうしたって死に物狂いで反撃するしかねェ。そうなりゃ味方も要らん痛手を喰らうし、場合によっちゃあ――」

 クロが小さな手のひらを掲げた途端、地響きにも近い雄叫びが袋小路にこだました。鼓膜を引き千切らんとする大音量に、本能的に男達の足がすくむ。
 気が付けば、四方を囲むビル全ての窓に、数え切れない人影がうごめいていた。

「なっ、なん、」

「ンな"上手くいきすぎた状況"は、単にテメェが、そう誘導されてただけかもしれねェぜ?」

 壁にもたれたまま、両腕を組み、邪悪なしたり顔を浮かべるクロ。先ほどまで額に浮かべていた汗も、引きずっていたはずの脚も、初めから無かったかのように涼しげに。

 頭蓋にまで響く雄叫びは一向に収まる気配が無く、仮に大男の仲間全てがここに居たとしても、決して敵わない人数差だった。それをこの場の全員に、一瞬で理解させて余り有る程には。
 クロがもう一度、細腕を天に伸ばし指を鳴らす。世界中の音が電源を落とされたように、おぞましい質量だった声がピタリと止んだ。

「じゃ、ここまでのおさらいを兼ねて問題だ。今この状況で、お前さん方がとれる、最も生存率の高い選択肢は何だ?」

 青白い月さえ覗かぬ深奥、スラムの夜が沈殿した袋小路で尚、その瞳は黒く輝く。
 空間を取り囲む闇全てが、あの小さな子供の影であるような。強烈な威圧感を放っておきながら、クロはニタリと笑う。「ちなみにヒントだが、オレ様は見ての通りの博愛主義者だぜ」

 ほとんど腰が抜けたような体勢で、大男はゆっくり両腕を上げた。


◆ ◆ ◆


「俺たちはぁっ、人様のものを力尽くで奪おうとしましたぁっ」

「もっと腹から声出せェ!」

「おお俺たちはぁー! わざと老人と子供ばかりを狙いましたあ!」

「反省が足りねェ! こういう時は何て言うんだ、アァ!?」

「「「ごぉぉめんなさああぁい!!」」」

 繁華街の廃墟に囲まれた、さほど広くはない旧駐車場。その壁際に置かれたドラム缶を囲うようにして、何人もの男が縄で縛り付けられていた。
 月にも届けとばかりの声量とは裏腹に、見る見る内に彼らが戦意を失い、しぼんでいくのが分かる。
 今まさにそれを躾けているクロが、積み上げられたタイヤのてっぺんから「もう一回最初からだ!」と三白眼を吊り上げた。 

「ねー、そろそろ許してあげよう? その人たちもハンセーしてるよ」

「まだ甘ェ。全身の穴という穴から誠心誠意の謝罪が出せるようになるまで、帰さねェぞオレ様は!」
「それ朝までに終わる? みんなが眠れないってー」

 目尻を下げたシロの背中で、幼子がぐずる。彼が目線で示した先には、広げた段ボールの上で半目をこする子供たち。更にその脇で、足腰の立たない老人らが不安そうにこちらを見ていた。
 タイヤ山から身軽に着地したクロが、「……わぁーったよ」と唇を尖らせる。

 クロとシロはたまたま、ここの住民に助けを乞われ、首を突っ込んだに過ぎない。被害者である彼らの安息を奪うようでは、襲ってきた男達と何の違いがあろう。

「オレ様としたことが、本末転倒だったな。つい熱くなっちまった。よし――じゃあここからは座学にすんぞ!」
「結局続けるのかよ!?」

 背後の壁を勢いよく平手で叩き、教壇代わりのタイヤを踏み台にする。拾い上げた白い石はチョーク、壁は黒板のつもりらしい。

「ッたりめーだ! あんな初歩的な罠に、ヤラセかっつーくらい綺麗に引っかかりやがって! テメェらの首と胴がまだ繋がってンのは、このオレ様が観音菩薩級に慈悲深いからだ馬鹿野郎めが!」

 唾を飛ばし肩を怒らせている割に、壁に綴っていく図は丁寧で見やすい。凸や三角の記号を用いて「これが敵。そしてこっちが自軍だ」と、何故か男達目線で解説を始めたではないか。

「そもそも、今回テメェらがこの地域を襲った目的は何だった? 答えろチェリー三男!」
「そりゃ、ここの奴らは水場を持ってるから、って、兄貴が……」

「そうだ。だがテメェらは“手負いのオレ”という別の餌を見つけた瞬間、本来の目的をないがしろにした。これが第一にして最大の敗因だ」

 「ちなみに、この腕のは血のりだからな」何気なく包帯をほどいたクロの右腕には、古傷こそ走ってはいても、目新しい傷口はどこにも無い。赤色が滲んだだけの包帯を、呆然と眺めている男達に、クロの容赦ない溜息が刺さる。

「こっ、こんなガキの浅知恵で一度騙せたくらいで、調子に乗んな! ガキ一人がいつまでもデカい顔してられるほど、シブヤは甘くねーぞ!」
「オイオイよしてくれよ、あんまりだぜ。浅知恵だなんて、ンな言い方されちまうとよ――」

 顔を左手で覆って傷心のそぶりを見せながら、けれどその下では、口元が半月状に引き上がっている。
 八重歯で笑いを押し殺してから、クロがゆっくりと指し示した先。向かいの道路から、大勢のシルエットが賑やかに帰ってきた。

「――"ただのマネキンの影"にビビッて失禁しちまった大人が、可哀想になるだろ?」

「なっ……!?」

 長身の大人――に見えた黒い影は全て、廃棄されたマネキンの群れだった。その支柱を抱え、あるいは二人がかりで持ち上げているのは、年端もいかない子供ばかりだ。

「兄ちゃーん! これもう片づけていーのー?」
「うん、いーよー! みんなありがとねー」

 解散するマネキン行列、もとい子供達にシロは両腕を振り返す。

 彼らに助けを求められたクロは、すぐさま動ける者全てに「街のマネキン人形をありったけ集めてこい」と指示を出した。土地勘のあるシロに、うってつけの袋小路を聞き出したら、近隣のビル内部に子供と老人を配置させる。

 男達が見た、無数にうごめいていた人影も、窓の下で子供が必死に人形を揺らしていたに過ぎない。急ごしらえの四面楚歌は、老人が腹の底から振り絞ったうめき声だ。
 血のりもマネキンもバレない程に視界が悪く、少人数の叫びがけたたましく反響する、あの状況下でしか成立しない策。
 それをわざわざ図解しながら、クロの講義は続く。

「開戦前の十二分な情報収集。敵勢力の分断。そして敵の最も脆くなった箇所を、こちらの全力で叩く! ――それが古今東西、カンナエからミッドウェーに至るまで、戦術における基礎中の基礎だ。覚えとけ!」

「お、おう……いや、なんで俺らにそんなネタバラシすんだお前」

 頭が良いのか悪いのか、よく分からないガキだと、大男は半ば呆れてくる。隣で縛られている、チェリー三男ことウメキが「なるほどー!」とうっかり感心しているのも腹立たしい。

「……お話中、失礼致します。皆さんの分がご用意出来ましたので」

 罵声と怒声ばかりが取っ組み合っていた空間に、凛とした声が吹き抜ける。
 男達の背後にいたのは、じき十代半ばに差し掛かろうかという少女だった。遠からず淑女へと至ることを確信させる、長い睫毛の下の面もち。桜色の髪をかんざしでまとめ上げ、すり切れた薄い和服で身を包んだ彼女は、お世辞にもスラムに馴染めているとは言い難かった。
 
 そんな少女の両手には、平たい鉄板。それをお盆代わりにして、いくつもの茶碗を乗せている。
 彼女がその場に膝をついて屈むと、ついてきていた幼児が、男達へと茶碗を差し出す。欠けた碗の中には、なみなみと透明な水が注がれていた。

「たくさん声を出して、お疲れでしょう? きちんとろ過した飲み水ですので、どうかご安心を」
時雨しぐれ姉ちゃんがいいって言うからよー、今回だけ仕方なくだかんな!」

 不服そうに頬を膨らませながらも、時雨という少女を手伝うため、幼児が水を配って回る。
 だが状況を理解できない男達は呆気にとられるばかりで、その様子を誤解したシロが「あ、そっか!」と手を叩いた。

「ごめんね、そのままじゃお水飲めないもんね! これさ、もうほどいてあげてもいーよねー?」
「はぁ……好きにしろ」

 クロが許可を口にする前から、縄を軽々引き千切っているシロには、おそらく「好きにしない」概念の方が無い。
 良くも悪くも、深く考えない奴なのだ。自由で、無邪気で、それ故に騙されやすいのに、そういった悪意の一切を"無自覚に撥ねのける"驚異的な身体能力を持つ。
 まだ短い付き合いながら、この盟友は実に分かりやすい。白鷹しらたかつばさとは、そういう少年なのだ。

 縄をとかれ、念願だったはずの飲み水を手にしても、男達は怪訝がって顔を見合わせる。
 その間に余っていた茶碗の水を一気飲みして「おかわりー!」と万歳しているシロよりは、まぁ利口と言えるだろう。

「勘違いすんなよ、オレ様はテメェらをタダで帰すつもりはねェ。テメェらには明日一日、ここで穴掘りとジャリ集めをしてもらう」

「穴掘りィ!? ざけんな、なんでンなことっ」

 黒曜の眼でぎろり、と睨め下ろされただけで、大男は反射的に言葉を詰まらせる。彼の手に収まっている碗を、クロの小さな指が示した。

「ここの水場は元々、カジタの爺さんお手製の、ろ過装置によるもんだ。そしてミチル婆さんの予報によれば、明日の夕刻に一雨くる。テメェらはそれまでに、雨水を溜める穴を掘れ。そうすりゃ水場が拡張できる」

 「仕組みとしちゃあ既に確立できてるんだが、今の設備では溜められる水量が心もとなくてな」そこに都合良く労働力の登場ってわけよ、とクロは眼下で座り込む男達を見渡す。

「言ったろ。オレ様は"タダ"で帰す真似はしねェ。力を貸してくれた報酬として、こっちは一日分の水を提供する。――いまテメェらに渡した分は、明日の前借りと思えよ」

「……! 俺らをそっちのチームに取り込もうってのか、チビ」

 嗄れた喉で僅かな唾を呑み込み、大男は苦虫を噛み潰した顔になる。

 この街には、裏社会に足をつっこんだギャングから、孤児が身を寄せ合う集落まで、大小様々なグループが点在する。警察などの抑止力が一切無いシブヤでは、縄張り争いと略奪行為こそが日常。強い者が奪い、弱い者は取り込まれるのが必然の世界だ。
 弱者から水場を奪おうとすることも、その返り討ちでチームを奪われることも、全てはこの街の法則に適う。

「あぁ? なんだそりゃ、くっだらねェ」

 「つかオレら別にチームじゃねェしな」「うん、二人でやらせてもらってます!」「漫才かよ」何かと抱きついてこようとするシロを慣れた手つきで払い、クロはタイヤ山の上で腕を組む。

「オレ様はただ"取引"の話をしてんだよ、長男。いいか、駆け引きにおいて『武力を行使する』っつーのはあらゆる選択肢の中で最も避けるべき悪手だ! これは正義だの道徳だのって話じゃねェ。それが、極めて非効率ハイリスク・ローリターンだからだ」

 まだ幼い眉間を気難しく寄せて、クロの瞳孔は大男だけを見据える。薄い胸にめいっぱいの息を吸うと、自身の膝を拳で打って。

「お前さんの本当の目的は何だった? 気に食わねェ餓鬼をリンチにすることか? 違ェだろう! ただ手前の仲間に、水を飲ませてやりたかっただけじゃあねェのか!? ――であれば、お前さんは"暴力以外の選択肢"を知らなきゃならねえ!」

 耳朶に張り手を食らわせるような啖呵に、思わず背筋が伸びる。だが不思議と、恐怖は無かった。
 クロの険しい目つきは、怒ってはいても責めてはいない。見下ろしているのに、見下していない。
 血管が浮き出る程にまくしたてた後、クロはふっと一度目を閉じた。短い瞬きの後でもその眼力は変わらなかったが、口元には愉快そうな八重歯が戻ってきている。

「……なに、お前さんならそう遠くない内に解るさ。安心しろ。それまではオレ様自らが懇切丁寧、完膚無きまでにその暴力を返り討つ」

 そこで悪戯っぽく片目をつむると、「まぁ今夜はここまでにするか。ワンドリンク制じゃあ、これ以上引っ張れねェしな」大男以外、とっくに水を飲み干していた彼らに苦笑した。

「取引の話は覚えておけよ。どうせ明朝は強制労働、楽しい一日体験会だ。それから先どうするかは、テメェらの頭で考えろ。――てなわけで、今日は解散! また日の出の時刻にここ集合だぞ!」

 クロは一方的に話を切り上げると、身軽に地面へ着地し、さっさと背を向けて行ってしまう。
 自分たちが解放されたのだと気付くのに数十秒費やして、ようやく誰ともなく立ち上がり、困惑顔のまま彼らも帰っていった。シロが大きく腕を振って、「またあしたー!」と親しい友人のように見送る。

 地に座り込んでいた住民の内、痩せぎすの老爺が顔を上げる。とぼとぼとした足取りで引き返す男達の背に、首を振りながら。

「……本当に、手伝いに来ると思うのか。あんなチンピラ共が」

「オレ様の見立てじゃあ二割は来そうだが、まぁどうだろうな。人はそうすぐには変われねェもんさ」

 老爺の隣に腰を下ろしながら、クロは何故か嬉々として笑う。
 眠れずにいた子供の顔には不安が、老人には憂鬱が、それぞれ色濃く滲んでいるというのに。

「人も街も、一朝一夕じゃあ変えられねェ。だが"変わらずにもいられない"ってのが人間の凄ェところよ。オレは革命がしたいわけじゃねえ、ただ種を蒔きてェのさ。差し当たっては、そうだな――爺さん方、字は書けるか?」

「は? 馬鹿にすんな坊主、そりゃ当然……」

「有り難ェ! そいつを是非、ここのチビ達にも教えてやってくれよ。この辺り一帯の奴に聞いて回ってるんだが、読み書きの出来る奴が少なくてな」

 「ついでにオレの相方も頼む、アイツ五歳児と同じコースから始めてくれ」物凄く真剣味に満ちた顔で、クロは背後を示す。すっかり目が冴えてしまった子供たちと、焚き火に寄ってきた虫を追いかけ回して盛り上がっている友人を。

「天気の先読み、飲み水の確保、熱中症予防……爺さん方の知識と経験則こそ、この街において万金の価値がある。そして――」

 そろそろ眠気に勝てなくなってきた幼子が、クロの膝元で舟を漕ぎ始める。その小さな頭部を撫でながら、静かに目を細めた。

「そしてチビ達こそが、未来だ。爺さん方から知恵を継ぎ、人としての道理を知って、いずれ"街そのものの未来"になる。どれだけ先になるかは分からねェが、それでもこれは決定事項だ。シブヤはオレが変える。……ただその為にはあんたら全員の力が必要だからよ、また何か困ったことがあれば、遠慮なく呼んでくれ」

 生えかけの八重歯を覗かせて、少年らしくはにかみ、笑う。いつの間にかこの街の誰もが忘れていた、明日より先の世界を語りながら。

 クロを中心に自然と出来上がっていく人の輪を、時雨は不思議そうに眺める。シロ――もとい、翼にはこれまでも何度か助けてもらったことがあるが、クロとは今日が初対面だった。

「なんと言うか……不思議な人、ですね」
「うん! おれの自慢のトモダチなんだ!」

 時雨の隣で、翼が大きく胸を張る。大型犬のような髪を上下にぴょこぴょこさせながら、「この前なんてねっ、たった一晩でカベをドーンってして、みんなウヒャーってなったりさ~」なんとか全身で感動を表そうとする彼に、少女も小さく噴き出す。

「えぇ。翼さんとは正反対のようで、でも同じくらい、眩いひと。翼さんが皆を照らす太陽なら――きっと、闇夜を導いてくれる月のような方なのですね」

「……いやいや、そいつは聞き捨てならねェーぞ」

 突然、時雨たちの間にぬっと顔を出した子供に、二人そろって跳ね上がる。つい先程まで向こうで盛り上がっていたのに、瞬間移動じみた現れ方をしたクロが、眉をひそめ、両手を腰に当てながら胸を張っていた。

「その言い方じゃあまるで、そこの阿呆がいねェと、オレ様の輝きが損なわれるみてェだろ。こちとら生まれてこの方、一等星だっつの」
「あ、申し訳ありません、決してそのような意味では……」

 肩を丸め、自分より背の低い子供に深く頭を下げる彼女に、クロの方が面食らう。「いや冗談だぜ、顔上げてくれ、ったく真面目だなぁあんた!」放っておくとそのまま膝を折ってお詫びを始めそうなので、焦って話を切り替えた。

「あんたにゃ礼を言いたかったんだ。花弁を擦り潰して血のりを作るなんて機転、オレには無かったからな。おかげで文字通り、一滴の血も流さずに解決できたぜ」

 誰も予期していない襲撃だったにもかかわらず、事態を把握したクロの指示は冷静で、迷いが無かった。皆を落ち着かせ、作戦を立て、役割を伝えて、鼓舞して送り出す。
 見ず知らずの子供に自然と従っていたのは、クロがあまりに堂々と、自信しかない立ち振る舞いで声を張り続けたからだ。

 ただ最後に「敵の誘導役はオレがやる」と言って、間髪入れずにナイフを己の腕に突き立てようとした時は、翼と時雨が大慌てで止めに入ったが。

「あまりに迷いが無さ過ぎて、びっくりしました……」
「いや、悪ィ悪ィ! 刃物にゃ慣れてンだけどよ、やっぱ痛くねェのが一番だな!」

 にしし、と笑う様子は、年相応の悪戯っ子と変わらない。少し肩の力を抜いたその表情が、きっとクロの素に近いのだろうと、時雨は思う。

「そーだ二人とも、自己紹介、まだだったよね!」
「大変失礼致しました。私、流華りゅうか時雨と申します。翼さんには、以前からお世話になっておりまして……今回も本当に有り難う御座いました」

 深々と下げた頭から、珍しい、淡い桃色の髪が流れる。煤をかぶった浴衣に草履、おっとりした言動と、何から何まで場違いに見える少女だが、実はここの住民達をまとめているのは彼女だという。
 ただ老人や病人、子供ばかりのエリアなので、"率先して世話を見ている"と言った方が正しいか。

「……流華? ってェと、あの旧流、朧月ろうげつ派の宗家じゃねェか」

 顎に手をやっていたクロが、たぐり寄せた記憶に目を丸くする。確かにあの家の令嬢であれば、気品ある佇まいにも納得できるけれど。

「ご存知なのですか?」
「そりゃ、華道の中でも特に歴史ある一派だったからな。……いや、すまねェ、無神経なことを言った。謝る」

 それが失言だったことに気付き、クロは自分で顔をしかめる。

 『流華』の名を最後に見たのは、半年ほど前。病死した夫人を追うようにして家元まで亡くなり、泥沼の御家騒動に発展していく様を、週刊誌が嬉々としてはやし立てていた。結局、弟子達が内部分裂したことにより、朧月派は解体され、流華も表舞台から姿を消してしまったのだ。
 あの権力争いと野次馬から逃れる為とはいえ、生粋の箱入り娘がこんなスラムに身を隠していたなどと、誰が想像できよう。

「ここまで独りで大変だったろうに、悪かったな……」
「いえ……」

 唇を噛んで俯くクロに、時雨はゆるゆると首を横に振る。この沈殿した空気を拭える言葉を探していると、二人の頭上から、更に斜め上を突き抜ける声が降ってきた。

「あー! おれ、すっごくいいこと思いついちゃったんだけど!」

 おそらくここまでの会話を何一つ理解していない――あるいは単に飽きたのだ――であろう翼が、挙手のつもりで万歳している。

「おれたちもさ、『ちーむ』作ろうよ! さっきの人が言ってたやつ! 『ちーむ』になったら、みんなでいつも一緒にいられるんでしょっ?」
「またテメェは、思いつきでそういうことを……」

 既にクロは片方の眉を怒りで引き攣らせているというのに、翼はその周りで謎のステップを踏みながら「ちーむ、ちーむ!」と手を叩く。
 怖いもの知らずな天賦の肉体と、学習能力が極めて低い頭脳が組み合わさると、天衣無縫の阿呆に仕上がるらしい。それを友によって実証してほしくはなかったが。

「ダメだ。オレ達の目的は、統一でも支配でもねェ。徒党を組めばその分、末端に目が行き届かなくなる恐れもあるんだぞ」

 「そもそも集団の利点はだな……」と語り出すクロのいつもの講義を、いつも通り聞いていない翼は、しょんぼりと目尻を下げる。
 小難しい理屈は一切わからないが、クロがダメだと言うなら、それはいけないことなのだろう。

「どうしても、だめ……?」
「だから、大所帯になる必要性はねェんだって」
「おれの一生のお願いでも、だめっ?」
「…………」

 自身の裾をきゅっと掴み、子犬のように潤んだ瞳を向けてくるのは反則だ。しばし無言の攻防が続いて、先に視線を逸らしたのはクロだった。
 これ以上は時間の浪費、とばかりに後頭部を掻く。

「……だが、まぁ、何をするにも手駒が足りねェのは事実だしな。多少の協力者なら、募ってもいいぜ」
「やったぁー!」

 嬉しさのあまりタックルじみた勢いで抱きついてくる翼を、クロは難なくかわす。結果、地面に顔からダイブさせられたにもかかわらず、友は「ありがとう!」と泥だらけの顔を綻ばせていた。
 難儀な友人を持ってしまったと思う。きっとこの先も、シロにそう願われたら、それを叶えてやらずにはいられないのだろう。

「じゃあまず、名前! ちーむの名前、シグレも一緒に考えよーよ!」
「そうですねぇ……翼さんによく似合うお花で、『ひまわり組』なんてどうでしょう?」
「いいね!」
「良いわけねェだろ万年五歳児!」

 危うく幼稚園を設立させられるところだった。
 「見切り発車の申し子かテメェは!」と目を吊り上げる子供を見て、少年少女は揃って小首を傾げる。

「えと、ならシグレが好きなお花にしよう!」
「まあ、嬉しいです。そうなりますと『あやめ組』とか『さくら組』になりますが……」
「いいねー!」
「とりあえず組って付けんのやめろ!!」

 二人のせいで辺り一面に漂うお花畑を、クロは必死に振り払う。そんな命名で、協力者を募集する立場も想像してほしい。あと集まったら集まったで怖い。

「ったく……、仕方ねェ。チーム構想についてはオレ様が練る。ついでに名前もな」

「わーい! いっぱい集まるといいねっ、おれもたくさんがんばるから!」
「あーもー分かったから今日は寝ろ。明日はお前が穴掘り隊長だ」
「やったっ、おれ穴ほるのすきー!」

 完全に脱力したクロの小さな背中を追って、翼が歩幅を合わせる。一見ちぐはぐで、会話すら噛み合っていない二人なのに、もっと深いところで信頼し合っている。
 翼に続きながら、時雨は自然と笑みをこぼしていた。「なんだか、家族みたいですね」「こんな、脊髄反射だけで生きてるような弟は願い下げだぜ……」「えっ、おれが下なの!?」



 ――それから二週間の後に。
 旧渋谷駅舎に登り、青の旗を突き立てた子供がいた。唖然とする住民たちを見下ろし、荒れ果てたスラムを見渡し、じきに夜を連れてくる西の空へ向き直る。
 夕陽が燃え移ったかのようにぎらつく瞳に、闇への恐れは無く。長い夜の、更に先の景色を見据えていた。

 眼下の住民へ、この街へ、そして傍らに立つ盟友へと、クロは高らかに宣誓する。

「人間なんざ、どいつもこいつもちっぽけだ。ちっぽけ同士で争って、今日を凌いで、明日に怯えンのも飽きただろ? どうせ一つ屋根そらの下なんだ、オレたちゃ家族も同然だろうよ。身内なら遠慮は要らねェ! このオレ様に力を貸し、知恵を分け、共に生きろ! 千辛万苦を越え、手前等が笑って死ねるその日まで、オレが家長の務めを果たそう!」

 やがて、都内で知らぬ者のいない一大勢力となる彼らの名は《スカイ》。

 表と裏、光と影の狭間に零れ落ちた人々を掬い上げ、互いに手を取りながら生きていく。
 そんな、誰もが思い描こうとすらしなかった未来を、二人だけが確信していた。
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