依頼3-1 『青天霹靂』

  3,黄昏  

「お待たせ夕喜くん、さぁ召し上がれ!」

 自信を満面に浮かべ、純也は両腕を広げる。眼前のちゃぶ台には、箸を置く隙間も無いほど、所狭しと皿が並べられていた。
 一口サイズの豆腐ハンバーグには、おろしポン酢と、時雨が育てたという大葉を添えて。ゴーヤ代わりにピーマンを使ったチャンプルー、カリカリのベーコンとホウレン草を包んだオムレツは、共に香ばしく食欲を誘う。

 次々と台所から運ばれてくる料理に呆然としていた夕喜も、そこでようやく我に返ると。

「チビ、テメェな……何人前作ってんだっ、満漢全席かよ!?」
「えへへ、そこまでじゃないよ~」

 褒められたと勘違いして照れる純也は、「うちだったらこれで一食分だしね!」と空恐ろしい台詞を吐く。
 割烹着姿のまま畳に膝をおろした時雨にも、「一度で食べ切れなくても保存のきくお料理だそうなので、どうかご心配なく」とフォローされてしまい。夕喜は渋々、目の前に置かれた玉子がゆに視線を落とした。
 丁寧に煮込んだ黄白色に、ほんのり浮かぶ梅干しの赤。鼻腔をくすぐる微かな生姜が、口に運ぶ前から身体の芯を温めてくれる。

「もちろん、最初は少しずつでいいんだ。食べられそうなもの、夕喜くんの口に合うものが一つでもあったら嬉しいな」

 と、言った傍から作った本人の腹の虫が鳴り始めてしまい、少年は耳まで赤くして縮こまる。時雨が肩を震わせるほど笑みを零して、「さぁ頂きましょう」と手を合わせた。

 二人がそれぞれ口に物を含んだのを見て、夕喜も玉子がゆの汁を少しずつ啜りだす。拾ってきたばかりの子猫みたい、と見守っていた純也の心を読んだかのように、キッと睨まれたので思わず顔を逸らした。

「私が作るのは和食ばかりなので、純也さんのレシピは大変参考になります。どれも素晴らしい味ですね、お母様から教わっているのですか?」
「いやそんな、僕に家族はいないので、見よう見まねでそれっぽくしてるだけですし!」

 それより時雨さんの漬物の方が――と言いかけて、純也はじっとこちらを見つめる二人の表情に気付く。薄い眉を寄せた時雨が言葉を探そうとする前に、焦って手を前で振った。

「えっと、いないって言うか、僕が思い出せないだけで……それに家族みたいな人はいるんですよ! その人の家に居候させてもらってるんですけど、僕と暮らす前はどうしてたのってレベルで家事は出来ないし、ちょっと目を離すとすぐ人にケンカ売ってるし。……でもりょうは、ひとりぼっちだった僕を拾ってくれて、居場所をくれて、傍にいてくれるから……"家族"ってこういう感じなのかなぁって、最近思うんです」

 細められた少年の瞳に、陰は無い。その横顔の名前を、時雨はよく知っていた。だからいま彼の頬を自然と綻ばせているのが、その同居人とやらなのであれば、きっと何も心配は要らないのだ。

「とても、お優しい方なのですね」
「はい!」
「で、そいつに毎日料理を作らされてるわけだろ」
「あはは、まぁそうでもあるんだけど……。でも僕も食べるのは大好きだし、何より、少しでも遼に恩返しがしたいから。あ、そのカボチャの煮物はね、遼もよく食べてくれるんだよ!」

 夕喜が頬杖をつきながらつまんでいた煮物を指し、「気に入ってくれたっ?」と身を乗り出す。そんな空色の瞳を三白眼で見据えた夕喜は、よく噛み、呑み込んで「七十五点」と実にリアルな採点で打ち返す。

「嬉しいなぁっ、うちの遼はね、何作っても『不味くはない』とか『別に』しか言ってくれないから。あ、そのチャンプルーも! ふふ、でもピーマンを食べられるだけ、遼より夕喜くんの方が偉いね」
「丸っきり主婦の悩みだなお前……」

 早々に空になった純也の茶碗に二杯目をよそっていた時雨が、開け放っていた店先の影に気付く。珍しい香りに誘われてきたのであろう子供達が、物欲しそうな目で、温かな茶の間を覗き込んでいるのを。
 時雨と、一人の少女の目が合った。言いづらそうに、けれど他の言葉を知らないまま「……おいしそう」と零したのを引き金に。

「時雨姉ちゃん、そのメシ何? 見たことない!」
「いいにおい! おれもたべる!」
「ちょうだい、ちょうだい!」

 瞳を輝かせ、無数の小さな手を伸ばして、子供達が我先にと居間へ上がり込んでくる。見慣れぬ余所者よそものもお構いなしの彼らには、制止しようとする純也の声など届くはずもない。

「あ、だめ、待って! これは夕喜くん達のご飯で――」

「汚ェ手で触ンじゃねえチビ共!!」

 有無を言わせぬ一喝が、拳骨と共にちゃぶ台へ振り下ろされる。
 しん、と静まり返ってしまった食卓で、黒曜の目を吊り上げた夕喜が短い溜息を吐き終わると。

「……手を洗ったヤツから食べて良し!」

 運動会のスターターピストルもかくや、という反応速度で、彼らは一斉に指差された洗面台へ駆けて行った。時雨も慣れた様子で「石鹸も使いましょうね~」とタオル片手に小さな嵐たちの後を追う。

 残されたのは、未だに口を半開きにしたまま固まっている純也。それと人数分の箸があったかどうか食器棚を確認する、夕喜だけだ。

「埃を立てちまって悪かったな、あんまりお上品にゃ出来ねェもんでよ」
「ううん、それはいいんだけど……でも、これは夕喜くんの食事なのに。あの子達って……?」

「まぁ端的に言えば、全員オレ様の子供だな」

「へぇ~、すごい大家族――んん!?」

 感心しかけた顔を勢いよく夕喜に戻し、子供達が消えていった廊下を見やり、また眼前の(自称)家主に向ける。くつくつと笑いを八重歯で噛み殺している相手に、純也はからかわれたことを悟った。
 もうっ、と唇を尖らせる純也の抗議。対して、まだ口元を引き上げたままの夕喜は「別に、間違ったことは言ってねェよ」と続けた。

「あのチビ達は皆、ここ渋谷で生まれた。だから全員がこの街の《家族》であり、オレ様の子も同然なのさ」

 それきり夕喜はちゃぶ台に肘をつき、自身の箸も止めて子供達が戻るのを待つ。細められた黒曜に滲む温度は、ただただ洗面台から駆けてくる賑やかな足音に注がれていた。

 それから程なくして、狭い居間に「いただきます」の声が弾ける。
 小ぶりのハンバーグを箸で取り合い、夕喜に叱られる男児。時雨の膝の上に乗る権利でもめて、泣きだす少女。
 今時、大家族のドキュメンタリー番組でもなかなか見られない人数だ。思わず呆気にとられていた純也は、自分の茶碗の中身が、白米からピーマンにごっそり交換されていることにも気付かない。

「コラ食わず嫌いすんなそこ! あとよく噛め! 客の分まで食うんじゃねェ!」
「せんてひっしょう!」
「ゆだんたいてき!」
「ったく減らず口たたきやがって、一体誰に似て――」

 "それ"に初めに反応したのは、夕喜だった。次いで時雨、子供達も何かに気づき、一様に店先へ振り向く。
 誰もが口をつぐんだことで、純也の耳にもそれが届いた。

 ガン、ガ、ガァンと、金属板を力任せに叩いているような歪な響き。けれどよく聞いていれば、一定のリズムが何度も繰り返されていることが分かる。
 何かを伝え、急き立てる"鐘の音"が、渋谷の空を覆ってゆく。

「……時雨。オレが行く。お前はここに居ろ」
「しかし」

 夜に染まり始めた外を見つめたまま、夕喜が低く言い放つ。
 すかさず腰を浮かせた時雨は、着物の裾を子供達に掴まれていたことに気付いた。決して強く握り締めてはこない短い指を、縋る言葉を飲み込んだ唇を、どうして置いていくことができよう。

「心配すんな、どうせ大したことはねェさ。それよりチビ共を頼む。そこの、頬に米粒つけた客人もな」

 虚をつかれた純也は、間の抜けた声をあげて必死に顔を拭う。それを一通り腹から笑うと、「どっこいせ」と妙に年寄りじみた挙動で夕喜は立ち上がった。

「こんな時間まで居座りやがって、街の外まで送るのが面倒だろうが。……だがまぁ、お前の悪くない味付けに免じて今日は許してやる。見ての通り、豊かな所じゃあねェが――せいぜい"お前の家族"と思ってくつろいでいけ」

 後ろ手を降りながら店先から出て行った夕喜は、外気の黒に溶けて、瞬く間に見えなくなる。
 結局言葉を返せなかった客人と、静まりかえった"家族"だけを残して。

「……さぁ、食事を続けましょう。怖がらなくても大丈夫。夕喜が行ったのですから」

 まだ不安を浮かべる子供たちに一人一人微笑みかけて、時雨は最後に、純也へと顔を向けた。少年が戸惑いに瞳を揺らすより先に、彼女は頷き、一呼吸おいて話し出す。

「今の音は、この街のアナウンスのようなものなんです。ここでは通信が出来るエリアもごく一部なので、伝達にはああやって、街の高台にあるいくつかの釣り鐘から」

 彼女曰く、鐘の鳴らし方で意味も変わるらしいが、もっぱら時報が主な役割らしい。

「稀ですが、非常時や人を集める際にも活用するんです。たとえば……」
「じしん!」
「かみなり!」
「かじ!」
「おやつ!」
「ふふ、そうね。皆よくできました」

 手を挙げて答えた子供達が、誇らしげに鼻を鳴らす。時雨に頭を撫でられて元気が出たのか、誰ともなく先ほどより旺盛に、箸が伸び始めた。
 純也も一抹の不安は残るものの、だからこそ、子供達の前で表情を曇らせまいと思う。
 本当に、彼らを家族のように想っていいのなら。自分にあと出来ることと言えば、腕によりをかけて作った、とっておきのデザートをお披露目するくらいだ。

 ……やがて今日一番の歓声に沸いた食卓に、林檎の香りと、子供用スプーンと、勢いあまって指ごと囓られてしまった純也の悲鳴が乱れ飛ぶ。
 いつの間にか、半鐘は鳴り止んでいた。



 純也の短い記憶史上、経験したことのない騒がしい晩餐は、あっという間に過ぎ去った。
 空腹が満たされたそばから、居間に転がって寝息を立てている様は小さな獣のように。背中を丸め、身を寄せ合う子供達に、時雨は家にあるだけの毛布をかけてやる。

 台所には、結局食べきってもらえなかった玉子粥のお椀と、純也がなんとか死守したアップルケーキが一切れ。夕喜が帰ってきたら、と残してあるものの、あれから何の音沙汰も無い。
 まるで街全体が押し黙ってしまったかのように、風の声さえ聞こえなかった。

「夕喜くん……遅いですね。あんな体調で、大丈夫かな」

 食器を洗いながらだった純也の呟きは、ほとんど独り言だった。
 夏場とはいえ、あんな包帯を衣服代わりにしているような薄着で。街中で見かけた誰よりも、みすぼらしい格好で、衰弱していたのが夕喜なのだ。

「ご心配には及びませんよ、夕喜は……いえ、"夕喜だから"と言うべきでしょうか。昔からああなんです」

 隣に立った時雨が、皿を拭く布巾を手に、静かに答える。

「先ほどの鐘の音は、滅多に使われないものなんです。だから子供たちを怯えさせてしまいましたが……街のどこかで、誰かが困っていたのでしょう。ああやって鐘が鳴ると、昼も夜も、街のどこにいても、夕喜は動かずにはいられません」

 困ったように微笑む顔には、身内を誇らしく思う色もありながら。桃色の唇から漏れた吐息は、どこか仕方なさそうに。

「でも、夕喜くんはどうしてそこまで――」

 言い掛けて、純也は短く息を呑んだ。視線だけを左右に走らせ、意識を耳に集中させる。不思議そうに首を傾げる時雨に対し、人差し指を立てて声を出さないよう合図した。

 警備員という仕事柄、"悪意を潜める気配"にはどうしても敏感になる。おそらく数は、少なくない。

 純也は小声で、「みんなの傍を離れないように」とだけ告げる。戸惑いながらも頷いてくれた彼女は、畳で眠り込んでいる彼らに寄り添った。

 既に閉めていた店先の引き戸を、僅かに開く。「どちら様ですか」などと聞ける空気でないことは、道路を埋め尽くさんばかりの男達を見た瞬間、理解した。
 一様に強面で、思い思いの鈍器を握り締め、店から出てきた純也をじっと睨みつけてくる。
 警戒と敵意に満ちた無数の眼が煌煌と、辺り一面に。けれど誰一人として声を上げないどころか、微動だにしない。
 それが逆に、純也に得体の知れない恐怖を覚えさせた。

 おそらく、花屋の裏手にも回られているのだろう。スラム街の青年達には似つかわしくない、冷静かつ的確な包囲網だ。純也ひとりでも逃げ切れるかどうか怪しいのに、まして、眠り込んだ幼い子供達を連れてなど――

 自然と半歩退がってしまった足に気付き、純也は踵に力を込め直した。深呼吸をして、拳をきゅっと握り締めたら、あの"大きな背中"を思い浮かべる。
 強くて、温かくて、時に己を盾にしながらも、決して屈しない後姿。瞬き一つで鮮明に現れるそれは、いつだって純也の恐れをかき消してくれる。

 いつ破裂してもおかしくない張り詰めた空気の中、男達が突然、左右に割れて一本の道を作った。
 反射的に身構えてしまった純也は、まるで軍隊のように統率のとれた彼らの動きに戸惑う。この道の先から鬼軍曹でも歩いてくるのかと思ったが、進んできたのはただ一人の少女だった。しかも何故かスキップで。

 軽快に靴を鳴らす度、長いツインテールとスカートの裾が、ぴょこんぴょこんと跳ね上がる。艶やかな毛先、襟までぴったり固めたブラウス、ミニスカートとタイツにいたるまで、夜に紛れてしまう純然な黒。その中で、頭頂部で髪を束ねている二つの青いリボンだけが、文字通りの異彩だった。
 華やかなランウェイを歩いてきたモデルの如く、少女は純也の前でくるりと一回転。ついでに頬に指を当て、ウィンクを一つ。

「こぉんばぁんはぁ~! 《スカイ》幹部ナンバー五、小悪魔×仔ウサギ×みんなの妹っ、美琴みことちゃん十七歳でっす!」

 ……決壊寸前だった緊迫感が、なにやら変な方向で暴発した。

 こんばんはーこんばんはー……と夜のスラム街だけが、慰め程度に反響してやっている。が、美琴と名乗った少女は何度もウィンクを送ってくるし、周りの男達も心なしか、先程より強めに睨んでくるので。

「こ、こんばんは……?」

「きゃっ、ご挨拶できるだなんて偉ぁい! 美琴ちゃんは感動しちゃいましたぁ、だって――――あの蒼波遼平の差し金のくせに」

 再度道を塞いだ男達の目に、強い怒気が灯る。けれど彼ら全員の視線より、美琴の憎悪に焦がれた一対の眼光こそが、純也を射竦めさせた。

「え……なんで、遼を知って……差し金?」

「あれれ、この期に及んで白を切るとかぁ、実はヨユーだったりしますぅ? でもざぁんねんっ。"若様の手にかかれば"、み~んなお喋りになっちゃいますからぁ」

 「直接カラダに訊かれる前に、ちゃんとお口で答えるのをオススメしますよぅ! いや割とガチで」憎悪と恍惚の熱に浮かされながらも、美琴が一瞬だけ覗かせた哀れみは、確かに少年に対する助言だった。

 純也は彼らの狙いが自分であること、それが何かの誤解から転じていることを察する。そして、この状況下では弁明は届かないことも。

 短く息を吸い、意識だけを背後にやる。耳を澄ませば子供達の寝息が聞こえそうなほど、薄い引き戸を隔てた向こう側。
 一度きりだったけれど、これまで味わったことのない、賑やかな家族の輪に自分を入れてくれた。それだけだ。それだけで、全力で護る理由に事足りる。

 少年は相手に気付かれないように少しずつ、重心をつま先に移す。逃げ切れれば御の字だが、最悪捕まるにしても、出来るだけここから彼らを遠ざけたい。ロクなお礼もお別れも、彼女に伝えられないことだけが残念だけれど。

 不意に鼻先をかすった甘い香りは、時雨のことを想ったが故の幻……ではなかった。急に開かれた引き戸に驚き、純也は花屋の内側へと振り返る。

「ダメですっ、まだ出てきちゃ――」

 どッ、と、鈍い音が背から胸を突いた。
 肺の呼気を全て奪われ、よろめいた純也に、間髪入れず二撃目の手刀が振り下ろされる。

 首を打たれた為か、地面にそのまま倒れたせいか、視界が明滅してよく見えない。頭の痛みも、自分を呼ぶ時雨の悲痛な叫びも、みるみる遠ざかっていく。

「――ど、して……」

 店の中から現れた影は、見たこともない冷酷な眼で少年を見下ろしていた。うつ伏せの純也に駆け寄ろうとした時雨を、その細い腕が制する。
 空色の瞳を、夜が覆う。誰も彼も、何もかもが分からなくなるほど、深く、濃く。


「……悪ィな。この千載一遇、利用させてもらうぜ、チビ」
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