依頼3-1 『青天霹靂』

  2,斜陽の花  

 凶悪なほどの日射と砂礫をものともせず、無垢な笑い声が街を軽やかに駆け抜ける。

 白い石を握り締めた子供達にとって、割れた車道は巨大なキャンバスらしい。日陰の方では同じ石で、老婆が若者に字を教えている。
 アスファルトが砕け、剥き出しになった土から、顔を出す緑。人工的――と呼ぶには旧時代すぎるが、確かに人の手によって掘られた水路のような川があった。

「なんて、言うか……」

 純也の想像とかけ離れた"シブヤ"の光景に、思わず素直な言葉がこぼれた。
 見渡す限りの廃墟に、気が遠くなるような風化をした自動車の群れ。落書き、汚臭、ハエに付きまとわれている野良犬も、純也の中の事前情報と合致する。のに。

 無邪気に駆け回る幼子が、自分達を追う強面の青年をからかいはしゃぐ。手製のクワを担いだ少女達の後から、神輿のような騒がしさで、野菜を積み込んだリヤカーを押す中高年がやってきた。荷車の上でスイカを抱える老人が「腰を入れろ」と一喝すれば、「あんたも引け」だの「むしろ重い降りろ!」だのと怒鳴り返す様に、周囲の人々が道を開け、笑いながら押す手を代わってやる。
 街の有様は確かにスラムであるのに、人々の表情はそれとは真逆だ。故に少年は、この光景を『何と言えば良いのか』が分からない。

 口々に「おかえりなさい!」と駆け寄ってくる子供達に手を振り返していた時雨は、純也の様子に気付き「すみません、私ったら」と口元を押さえた。

「じきに夕方なのに、ついゆっくりしてしまって。場所はこの道玄坂を下ったところですので」
「いや、それは全然構わないんですけど……なんか、シブヤって僕が思ってた感じと違うなぁって」

 言って、申し訳なさそうに頭を掻く純也に対し、時雨は気を悪くした風も無く「ええ。よく言われます」と嬉しそうに。

「今から十年ほど前までは、おそらく純也さんが想像された通りの街並みでした。しかしある人が『水も食料も無いなら、自分達で作ってしまえ』なんて言い出して……皆で雨水を引いて、土を掘り返して畑にして。ふふ、今では水田まであるんですよ?」
「えっ、こんな街中にですか!?」
「はい、お陰様で。それでも表面上、スラムであることには変わりませんが……私は渋谷このまちを、心から愛しています」

 お陰様、のはずがない。そもそも"街の外から隔絶されてしまったが故に"彼らはインフラの枯れた瓦礫の中、自給自足を余儀なくされたのだ。
 けれど同時に、そんな暮らしこそが今の彼らの結束を生み出した、と時雨は言いたいのだろう。彼女のたおやかな声音には、一片の皮肉も混ざってなどいなかったから。

「あぁ、見えてきました。こちらです純也さん」

 時雨の袖が示した先は一軒の花屋――だったもの、だ。小ぢんまりとした木造建てで、かなり前の時代からこの街に佇んでいたことが見て取れる。
 渋谷がまだ賑わっていた頃は、あらゆる色彩を揃えていたであろう店先も、今では割れた鉢植えが点在するのみ。店内のプランターでは暑さにやられた白いキキョウが、花開く前に力尽きようとしていた。

「ご覧の通り、あまり綺麗ではないのですが……もしお時間がよろしければ、上がっていって頂けませんか? お礼にもなりませんが、せめてお茶くらいは」
「そんな、お気遣いなく!」

 首を横に振った拍子に汗が滴り落ちてしまい、純也は慌てて胸に抱いていたリンゴを持ち上げる。既に店の棚から手ぬぐいを出していた時雨に「どうか、涼んでいくだけでも」と上目遣いをされてしまっては、止まる汗も止まらない。
 草履を脱いだ時雨が、店の奥の障子を開けると、そこは六畳ほどの居間だった。差し込む日光だけが頼りの薄暗がりの先を見て、住人である彼女自身が「あら」と瞬きする。

 居間の中央に置かれたちゃぶ台で、古新聞を読み込んでいる小さな影が一つ。首元までの黒髪に、ぶかぶかの半纏はんてんを羽織った、痩せぎすの子供だ。
 眉間にシワを寄せて字面を追っていたが、時雨の帰りに気付くと、顔を上げてふっと目元を緩める。目の下に濃いくまを浮かべてはいるが、黒曜の瞳には少年らしい輝きが灯った。

「起きてらしたんですか? まだ、横になっていた方が」
「いい加減、寝飽きちまったよ。お前にも遠くまで行かせて悪かったな……って、誰だ、そいつ」

 新聞を畳んでいた手を止め、純也の存在に気付いた黒の瞳が、ついっと鋭くなる。明らかな警戒の色に、先に首を振ったのは時雨の方だった。

「この方は、ここまで荷物を運ぶのを手伝って下さった純也さんです。風呂敷が破れて林檎を落としてしまったところを、助けて頂いて」
「戦前のトレンディドラマかお前ら。ったく、いつも言ってんだろ時雨。ンな単純明快なナンパに引っかかってんじゃねェよ」
「ななっ、ナンパなんかじゃ!」
「じゃあ用は済んだなチビ、遠路遥々ご苦労。カラスが鳴く前にガキはさっさと帰りな」

 しっし、と野良猫を払う手に、歪めた表情までつけて追い返そうとする相手に、流石の純也も白い頬を膨らませて食い下がる。

「君だって、僕と同じくらいじゃないか!」
「あぁん!? ざけんなクソチビ、このオレ様を、テメェみてェなモヤシと一緒にすんじゃねえ!」
「そっ、そっちだってゴボウみたいに細いくせにっ」
「うっせえカリフラワー頭!」
「紫インゲンっ」
「ひよこ豆ッ」
「黒大豆!」
 徐々に互いが知っているマメ科の列挙と化していく言い合いに、時雨まで「そろそろ枝豆の季節ですねぇ」などと頬に手を当てるものだから、いよいよ収拾がつかなくなる。 
 向こうがつま先立ちしてまで見下ろそうとしてくれば、純也もめいっぱい胸を張って対抗する。傍から見れば微々たる差だが、その数センチは、あらん限りの男子のプライドなのだ。

「オレ様を誰だと思ってやがるッ、この豆モヤシ!」
「あっ、モヤシはもう言ったよ!」
「しりとりしてんじゃねンだよ馬鹿野っ――、あ、かはっ」

 息つく間もなく応酬しようとした怒声が、突如、掠れた咳に変わる。それも一度や二度ではなく、自分の吐き出した息でふらついてしまう程に激しい。
 崩れる寸前の細い身体を、すかさず背中から受け止めたのは時雨だ。

夕喜ゆうきっ……、あぁ、やはりまだ無理はいけません、休んでいないと……!」

 膝をついて前かがみに丸まった薄い背中を、時雨は懸命にさする。小さな喉など裂いてしまいそうな咳が響く度に、彼女の方が目を潤ませた。
 純也は背負っていたリュックを畳に降ろすと、二人を交互に見ながら身を乗り出す。

「時雨さん、この症状は……?」
「今年の春先に風邪で熱を出して、それ自体は治ったのですが、何故か咳だけがずっと続いているんです。咳止めの生薬を飲んではいるのですが、効果は一時的で……」
「喀血や嘔吐はありましたか? 何か持病は?」

 突然医者のような質問を始めた少年の眼に、悪ふざけや興味本位の色は無い。その声も表情もあまりに真っ直ぐで、どこか使命感すら帯びている。

「血を吐いたことはありませんが、吐き気は度々あるようで、食欲もほとんど。持病は特に無いはずです」

 時雨の言葉に頷いてから、純也は患者本人の手首に触れる。
 全体的に黒っぽく見えたのは日陰のせいだけではなく、肌も土気色をしていたせいだ。だがこの色は元からではない。
 三十度越えの真夏日だというのに、指先はひんやりと冷たく。骨と皮以外の厚みを感じられない手首からは、浮き出た血管だけが狂ったように命を主張していた。
 羽織っていた半纏の下はノースリーブのジャケットと短パンのみで、しかもそういった古着よりも、四肢を覆う黒ずんだ包帯の面積の方が多い。それでも隠しきれない傷跡の数は、とてもこの年齢の子供が耐えられるものではなかった。

 純也は思わず息を呑み、そしてすぐさま唇を噛んだ。
 この距離まで近付かなければ察することが出来なかった、自分が悔しい。これほどの痛みを抱えながら、"一切他人に気付かせようとしない"この子の強さが悲しい。
 これとよく似た無茶をする同居人の面影が重なって、緩みかけた涙腺を、少年は自分で叱咤する。

「ぐっ、ごほ、……ガキのお医者さんごっこ、に、付き合うほどヒマじゃねんだよ……! 時雨も、もういい、離れろ……ひとりで立てる」

 純也の手を払い、時雨を押し退けようとするが、まだ息が整っていない身体では力も入らない。
 白い少年は振り払われた指で、背けられた青の瞳で、枯れ枝のように細い手を正面からしっかり掴んだ。

「……大丈夫だよ、夕喜くん。その咳は気管支の衰弱からきている症状だから、周りの人に感染するものじゃない。だから、そうやって人を避けようとしなくても、だいじょうぶだよ」

 冷たい土気色の指を、純也の両手がそっと包み込む。
 そこできょとんと丸くなる黒曜の瞳まで、純也のよく知る男に似ていて、つい笑みがこぼれてしまう。

「時雨さん。休息と栄養のある食事、それとしばらく空気が汚れている場所は避けて、激しい運動も控えさせてください。出来る範囲で構いません、それで咳は落ち着くはずです」
「あ、はい……純也さん、あなたは一体……?」

 購入した食材を詰め込んでいたリュックの奥から、ペンライトに体温計、包帯と消毒液を次々と引っ張り出してくる少年に、時雨も瞬きを繰り返す。同じく呆気に取られている夕喜の前に座り込むと、「じゃあちょっとお腹見せてねー」と疑問形ですらない声かけでジャケットのファスナーを一気に下ろした。
 案の定というか、もはや肌着代わりに包帯が胴を覆っていたが、それを何重に巻いても浮き上がった肋骨は隠せていない。

「ばッ、おま、触んな! くすぐってェ、けほっ、げほ!」
「恥ずかしがっている場合ではありませんよ夕喜、しっかり診て頂かないと」
「お前もよくこの状況飲み込めてンな!?」

 時雨の膝の上で、半ば羽交い絞めにされた夕喜が、小型宇宙人の解剖よろしく最後の抵抗を見せる。意外と容赦のない足蹴が飛んでくるので、純也は腹部の触診を諦め、代わりに喉と瞼の下を診させてもらった。
 やはりウイルス感染の可能性は低い。そうであってくれた方が、まだ治療薬の探しようもあったのだけれど。
 これはもっと根深く……しかも時雨たち個人では、おそらくどうにもならないものだ。

「夕喜くんの諸症状は、たぶん長期間に渡る栄養失調と貧血が原因で、そこから体力や免疫が著しく落ちているんだと思います。だから、すぐに回復は出来ませんが、少しずつ食べて安静にしていれば……」

 始めは時雨の目を見て告げていた診断結果も、徐々に純也の方から俯き、同時に声も縮こまっていく。ここまでの短いやりとりの中で、彼女が夕喜をどれほど大切に想っているのかは、胸が締め付けられるほど解っていたから。
 だからこんな、自身を責め悔やむ表情を、時雨にさせたくなかった。

「ごめんなさい夕喜……いつもあなたにばかり無理をさせて」
「ばか、お前はよくやってる。謝ることなんざ一つもねェ。これも全て、オレ自身が招いた末路なんだからよ」
「やめてください、そんな……っ、あなたまで失ってしまったら、私は……!」

 夕喜の細すぎる腹に腕を回し、時雨は背中から縋るように抱き締める。そんな彼女の目尻にそっと手をやり、零れ落ちる寸前の滴を指先で拭ってやりながら、夕喜は困ったように眉を寄せた。「あぁもう、悪かったよ。いい女の涙にゃ弱いって、何度言ったらわかるんだ?」顔をくしゃっと歪めて、仕方なさそうに笑っていた。

 一見すると子を守る母のような光景だが、時折夕喜が見せる妙な落ち着きは、むしろその逆であるようにも思えた。実の姉弟にはとても見えないが、同居しているようだし――とそこまで考えてしまったところで、純也は自身もほぼ同じ境遇だったことを思い出す。他人をあれこれ詮索できる立場にはないのだ。

 でも。
 だからこそだ、と純也は気付く。
 似たような身の上だからこそ、互いを大切に想い合う気持ちが、少年にも痛いほど解る。血の繋がらない、本来は義理の発生しない関係なればこそ、"ただ傍に居てくれること"がどれだけ嬉しく、掛け替えの無いものかを。

 故になんとか二人を助けたいし、夕喜の健康状態にも出来る限りのことをしてあげたい。だが悲しいことに、『日々食べるのも精一杯』というところまで自分達は共通しているのである。

「そうだ! 時雨さん、今日のお夕飯は決まってますか?」
「え、えぇ……玉子がゆと、あの林檎をすり下ろして夕喜にと」

 よし、と思い立って純也は再びリュックを漁り出す。毎日切り詰めないと食べていけない自分なりに、力になれる方法があるではないか。

「じゃあその他に主菜や汁物を作って、少しずつ栄養を摂りましょう。特に鉄分……ホウレン草とか、大豆食品ってありますか?」
「すみません、うちには小松菜の余りくらいしか……」
「それなら、このアサリの缶詰と一緒に僕がクラムチャウダーを作ります! あと牛挽き肉も持ってるので、これを豆腐ハンバーグにして……あ、ひじきを入れても良いかもしれません! ちょっとキッチンお借りしますね~」

 スーパーでの戦利品を惜しみなく抱えて、純也は上機嫌に隣の台所へ向かう。偶然にも大量に買い込めた日で良かった、とこれから作れるレシピに胸が躍る。遼平も明日まで帰ってこないし、黙っていればバレないだろう。
 それに、別に気付かれて怒られたって構わないのだ。どれだけ嫌そうな顔で悪態をついたところで、目の前で泣いている誰かがいれば、いつだって真っ先に手を差し伸べてしまうような人なのだから。

「こらチビッ、人ンちで何を勝手に……奴を止めろ時雨!」
「待ってください純也さんっ、いまメモを用意しますので!」
「お前も乗り気なのかよ!?」

 淡桃の髪を結い上げ、割烹着に着替えた時雨が、深々と礼をしてから台所に入ってくる。そこで背後の入口から子猫のように顔を出し、まだ不審げにこちらを睨んでくる夕喜とも目が合った。

「これでも料理は得意なんだ。今日は夕喜くんの為に、腕によりをかけて作るからね!」
「ちッ……だいたい夕喜くんじゃねェ、"夕喜様"と呼べチビ! テメェにも毒見させるからな」
「まあ! それでは純也さんの分もお茶碗を出してきますね。晩御飯にお客様をお招きするのはいつぶりでしょう」
「わぁっ、ありがとうございます!」

 「あっ、おい、違……」と訂正しようとした声も、春を迎えた少女のように食器を探し始めた時雨を見てか、居間の奥に引っ込められてしまった。純也に刺さる黒い視線はきっと、時雨を気にかけるが故なのだろう。

「僕と一緒に住んでる人もね、僕が身体を壊すと、決まって玉子がゆを作ってくれるんだ。大ざっぱで、いつも塩分過多なんだけど……とっても優しい味がするんだよ」

 簡素な台所に差し込む西日が、純也の白髪に染み込んできらきらと瞬く。それは有明の陽光にも似ていて、夕喜は目を伏せ顔を背けた。


◆ ◆ ◆


 世田谷区、下北沢某所。
 腰を下ろしただけでミシリ、と嫌な音を立てた木製の椅子に眉をひそめ、少女は腐りかけのそれに座ることを諦める。狭くかび臭い懺悔室に案内されたものの、まず反省すべきはこの教会の主ではなかろうか。

 頭部の高い位置で結わえても、腰まで届くツインテール。小さな顔をリズミカルに揺らす度に、髪を縛っている青のリボンが踊る。
 やたらとレースの付いた黒いミニスカートに同じ色のワイシャツと、どこかゴシック調の身なりではあるが、一方で同い年ほどの女子高生よりも顔には化粧っけが無い。それでも年の割に艶めかしい目元には、彼女自らがそれを必要としていない自信のようなものも伺えた。

「ハーイお待たせしマシた! コチラがご注文のブツだヨー!」

 向こうでドアが開く音とほぼ同時に、薄い壁を一枚隔てたくらいでは緩和されない陽気な大声が降ってくる。懺悔室を『情報屋の受付』に使うとは妙案かも、などと考えてしまった数分前の感心を返してもらいたい気分だ。
 廃屋じみた教会の外まで易々と響き渡りそうな、機密性もへったくれもないこの大男が情報屋の主人だという。二人を隔てるベニヤ板も所々ヒビ割れていて、正直相手の顔もほぼ見えているし。

 二メートルは超えるであろう長躯の男は、フェイズと名乗った。なんでも最近情報屋を開いたばかりだそうで、破格の値段設定から依頼してしまったものの、少女の胸中は既に反省会ムードである。彼がベニヤ板の隙間から差し出してきた調査書を溜息混じりに受け取り、極限まで期待値を下げてから目を通す。

「名前は……キリベ、シン? ふぅーん、確かに見た目は一致してるっぽいですねぇ」

 よくもまあ『人生詰んでる目をした金髪の木刀使い』なんて手がかりだけで探し当てられたものだ。こう見えて情報屋としての腕は確かなのか、それともこのキリベという男が有名なのか。
 少女は髪の先を指に絡めながら、調査対象の個人情報に視線を移す。性別、年齢、星座、好きなTV番組……と、小学生の自己紹介じみた項目の羅列にとうとう見切りを付けようとした、その最後に。

「裏警備会社、ロスキーパー? 何ですかそれ、美琴みことちゃん聞いたことないんですけどぉ」
「そのまんま、裏社会専門の警備をする人達ダヨ! どうやら出来たのはココ十年ほどらしいケド、お金さえ払えばどんな手段も厭わないクレイジーな便利屋サンね!」

 「うっわ、イマドキそんな分かりやすい汚れ仕事あるんだぁ……」と正直な感想を漏らしつつ、吊り目の少女――美琴の思案は別の方向を辿る。

 先日、不意に渋谷に現れたこの侵入者の素性と目的を探るのが、美琴に下された指示である。いつもなら外部の人間に頼ったりはしないのだが、渋谷の縄張り近辺をあらかた探しても見つからず、それが余計に警戒心の強い主人の気を引いてしまった。
 ひとまず『裏社会に属する警備会社の支部長』という素性は知れたが、であれば目的は何だったのか。
 話によればその時の当人は「うっかり迷い込んだ」と半ベソをかいていたらしいし、案外本当にそうなのではないかと思う。……もうそういうことにして帰りたい、という美琴の希望が半分だが。

「ま、《スカイ》に害を為さない人間ならどぉでも良いんですけどねー。しかも地味顔だし甲斐性無さそうだし、若様わかさまの方が二百倍はイケメンじゃないですかぁ。ぜーんぜん美琴ちゃんの好みじゃないしぃ」
「じゃあ、今回の調査はココマデでオーケー?」
「うぅーん、でもなぁ~……たったこれだけの情報で帰ったら、若様に怒られそーなんですよねぇ」

 少女は唇を尖らせながら、新人タレントのプロフィールより薄っぺらい内容の調査報告書を睨み付ける。写真の中で死んだ目をしている男には端から微塵の興味も無いが、こんな地味男のせいで自分がお叱りを受けるのはもっと御免なのだ。

「えぇっと、そのナントカって警備会社? の、情報とかもうちょっとあります~? ホント何でも良いので、一番安いやつ欲しいんですけどぉ」
「ハイハイお安いゴヨー! 美琴チャンはラッキーね、その《中野区支部》は全支部の中でベストオブ激安! コチラが所属してる社員全員のプロフィールだヨ!」
「いや流石に全員分は要らな…………て、四枚しかないんですけど?」
「ウン、だって全部で五人しかイナイし」
「警備舐めてませんそこ?」

 いよいよをもって胡散臭くなってきたが、果たしておかしいのはこの警備会社か、それとも目の前の情報屋なのだろうか。
 追加で差し出された書類をめくりながら、「あーこのメガネの人はなかなか……でも神経質でひ弱そう~、こっちのお子ちゃまは論外ですしぃ」と完全に品定め目的でしか顔写真を見なくなった、ほんの数秒後。

 壁越しのフェイズにも、少女が息を飲み、そしてしばらく呼吸を忘れた緊迫感が肌で分かった。
 バキリ、と床に亀裂を生んだ自身の右足にも気付かず、美琴は蒼白の表情で目を見開いている。

「な、んで……なんで、あいつが……ッ!」

 用紙を握り締めた指が汗ばみ、震えても、彼女はただ一点から視線を外そうとしない。この三年間、忘れ去りたいと願い続け、けれど一日たりとも殺意を拭い去れなかった男が、小さな枠の中で嗤っていた。

 ――――蒼波そうは遼平りょうへい
 間違いない、見間違えるはずもない。あの日、渋谷スカイを混乱と絶望に突き落とした、裏切り者の顔は。

「やっぱり生きてたんだ……急いで兄様に、若様に伝えないと!」

 遼平以外の調査書を片手で鷲掴みにして、美琴は傾いた木製の扉から弾かれたように飛び出していく。「アッ、お代はー!?」「あとで耳揃えるからッ!」聖堂の名を借りた廃墟を駆け抜け、黒の二つ結びを跳ねさせた少女は兎の如く路地裏に消えていった。

 見慣れぬ来訪者が帰ったことを察してか、ここを住処とするカラス達が朽ちた十字架に留まり、空を仰いで鳴き始める。じきに陽が落ちるのだろう。

「モー、久々のお仕事ダッタのにナー。……まぁイッカ、なんだか面白くなりそーだし、ネ」

 少女の帰りを待ちわびていたかのように、既に東には底知れぬ夜が口を開けていた。
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