依頼3-1 『青天霹靂』

  1,ひさかたの光のどけき夏の日に  

 突き抜けるような青の先に、入道雲が浮かんでいる。夕立にならないといいな、と気にかけたのは干したままの洗濯物だ。
 区をまたいでまでスーパーのタイムセール巡りをした帰り道。リュックサックに詰めた戦利品の重みで、純也は上機嫌だった。

 今日はとても良い日だ。
 新宿の闇医者に、未払い分の治療費を渡しに行ったところ「もう要らん」と断られてしまった。彼曰く、最近大きな臨時収入があり、春から遼平と純也がツケていた額など補って余りあるらしい。
 しかしそれとこれとは話が別では、と純也が必死に貯めた金額を差し出したものの、「希紗と澪斗に感謝しておくんだな」とだけ言い残してさっさと地下に引き返していった。
 何故か突然借金が免除されたおかげで、その後のスーパーではなんと牛肉が買えた。明日の昼頃には依頼先から帰ってくる同居人に、久しぶりに良いものを食べさせてあげられるだろう。

 何のお料理にしよう、と今から明日のレシピを思い描く純也の鼻先を、ふわりと甘い香りが撫でた。
 砂糖菓子よりも繊細で、控えめな――たとえるなら、散る刹那の桜のような。
 蝉が甲高く主張するようになって久しいこの時期に、桜なんて有り得ない。だが実際は、純也が顔を上げた先にいた人物の方が、よほど非現実的だった。

 陽炎ゆらぐアスファルトを、薄い草履で歩いていく華奢な女性がいる。菖蒲の花をあしらった着物姿だけでも充分珍しいが、純也が目を惹かれたのは更にその上。南風にあおられる長髪は、亜麻色に淡い赤みを加えた薄桃だったのだ。
 人影もなく熱で淀んだ街をゆく、品の良い着物を纏った、桜色の髪をした妙齢の女性。それぞれはちぐはぐなのに、後ろ姿でもわかる凛とした一挙一動が、彼女を現実世界と調和させている。

 じりじりと肌を焼く日差しも忘れ、純也がしばし見惚れていると、ふいに彼女が手にしていた風呂敷包みから、真っ赤な何かが転がり落ちた。
 我に返り、思わず「落としましたよ!」と声をあげる。それに気付いた女性が振り返ろうとした瞬間、風呂敷がほどけ、包まれていたリンゴが全て道に散乱してしまった。
 駆けだした純也はまず最初に落ちた一つを拾うと、道路にしゃがみリンゴを集めようとしている女性のもとへ向かう。
 
「おねえさん、大丈夫ですかっ?」

 慌てて膝を折っていた女性は、頭上からの声に気付いて顔を上げる。
 心配そうに覗き込みながら、小さな手でリンゴを差し出してくる少年だ。太陽を戴く白い髪はきらきらと銀に輝き、背負う晴天と同じ色の瞳と相まって、夢幻ゆめまぼろしから抜け出てきた存在に思えた。

「あ、はい、あの……有り難う御座います」

 目を見開いてから、二、三度瞬きをすると、女性はようやく純也の手からリンゴを受け取った。いきなりのことで一瞬驚いた様子だったが、長い睫毛の下の瞳はすぐに落ち着いた穏やかさに染まる。

「申し訳ありません。風呂敷が破れてしまったようで、ご迷惑を」
「いえ、僕は何にも……それより代えの袋か何か、ありますか?」

 よく見ると、その風呂敷というのも古い布を縫い合わせたつぎはぎだらけのものだ。落ちたリンゴをひとまず、風呂敷だった布へ乗せて集めてみたが、これ以上はもう役目を勤められそうにない。しかも女性にはそれ以外、財布を持ち歩くための鞄も無いようだった。
 彼女の困り顔からそれを察した純也は、素早く自分のリュックから手製のトートバッグを引っ張りだす。

「もし良かったら、これ使ってください。自分で縫ったので、あんまり見た目はよくないんですけど……頑丈さなら、保証できますから!」

 そう胸を張って少年が広げたバッグには、何故か分厚い青地に白い筆文字で『佐渡島さどがしま』と印字されていた。
 まあ、と口に手を当てた女性の反応に先回りするように、純也は慌てて「えっとこれは、古着のトレーナーを再利用したもので……ちゃんと綺麗ですよっ、よく洗ってから裁断したし、裏地は新しい布を使ってまして……!」とPRなのか弁解なのか微妙な補足情報を並び立てる。
 懸命な少年と、手作りのトートバッグを交互に見て、女性は小さく噴き出した。春の花弁がほころんだような表情は、けして気品を損なわず、しかし無垢な少女のままに。

「ふふ、こんな愛らしいものを、お借りしてもよろしいのですか?」
「はい、良ければ差し上げます!」

 皮肉らしさなど欠片も感じさせない眼差しに、少年も他意の無い笑顔で返す。「そんな、頂いてしまうなんて」「いえどうか使ってください」とほわほわした押し問答を何回か繰り返した後、とりあえず、ということで純也がバッグにリンゴを詰め始める。
 純也の片手にも収まるほど小ぶりで、ややいびつな形をしたリンゴばかりだ。しかも傷まで付いてしまい、それを見つけた青の瞳が曇った。

「ごめんなさい、落とした時に傷めてしまったみたいで……」
「いいえ、これは元から傷ありで、その為に譲って頂いたものなんです。だからどうか気になさらないで下さい、お陰で本当に助かりました」

 彼女が深々と頭を下げると、耳にかけられていた薄桃の毛先がさらさらと零れていく。近くで見ると、菖蒲色の着物は随分と年季が入っており、草履も使い古しているのが分かる。立ち振る舞いの上品さとは裏腹に、か細い身なりはあまりに質素だ。

「おうちは遠いんですか? 僕は高円寺の方なんですけど、良ければ途中まで荷物を――」
「お気持ちは大変嬉しいのですが、そこまでして頂く訳には参りません。大丈夫です、私の家はすぐそこの、渋谷ですので」
 
 言って、何でもないように南の方角を指差した女性に、少年は素っ頓狂な声をあげる。

 シブヤ。
 十年前、国内で初めて『特別治安保全法』の対象となった街であり、今もそれが解除されない都内最大のスラム地区。
 当初『特別保全区』として指定された地域から年々範囲が広がり、現在では"渋谷区"として管理されている土地はほとんど無いと聞いた。
 純也も実際に見たことは無く、知っている情報は古い新聞記事や、周りの大人から教えられた程度のものしかない。なかでも遼平からは、「渋谷には絶対に近付くな」と強く釘を刺されている。純也が「どうして」と訊いても、「とにかく、危ねぇ場所だからだ」と怖い顔をするだけだった。

 ならば尚更、荷物を抱えた若い女性を独りで行かせるわけにはいかない。
 純也はリンゴを詰めたトートバッグを胸の前で抱きかかえると、「近くまでお送りさせてください!」と背筋を伸ばす。警備員の制服を着ていれば多少はマシだったのだが、生憎いまの格好はTシャツにリュックで、その辺りを駆け回っている夏休みの子供達と何ら大差無いのが悲しい。なんとか信頼を得ようと踵を浮かせてまで背伸びしてみるが、少年なりの真摯な顔が近付けたのは僅か数センチだ。

 不思議そうにゆっくりと瞬きを繰り返す彼女に、純也の心配や力量が伝わった風は無い。が、必死さだけは汲み取ってくれたようで「では、お言葉に甘えさせて頂きますね」と少年に何度目か分からない礼を述べて微笑んだ。

 その静かに澄み切った、水面のような慈しみと目が合った瞬間、思わずリンゴの山に顔を埋めてしまいそうになる。依頼先で見かける着飾った綺麗な人達とは、また別のまばゆさだと思った。そしてそれを表す言葉を、純也はまだ知らない。

 道案内のために先へ歩き出した女性を追い、純也も荷物を気遣いながら進む。どちらともなく歩幅を合わせて、青天と南風の先に佇む街へ。

「そうだ、まだお名前を伺っていませんでしたね」

「僕、純也って言いますっ」

「今日は有難う御座います、純也さん。私は時雨しぐれと申します。ほんのそこまでですが、よろしくお願いしますね」
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